異世界で最強の勇者になってダラダラしていたら追放されかけたので真面目に働きます!~あ、婚約破棄にならないような素敵な相手どこかにいませんか? 悪役令嬢? ノーセンキュー!~

 皆さん、ごきげんよう。

 人生楽なこともあれば苦なこともあると言いますが、いかがお過ごしでしょうか。

 このたび俺も異世界転生する運びとなり、例によって例のごとく無双して大勝利したわけであります。

 そして女子たちと一緒に田舎で新居を構えて毎日のんびり過ごしていたわけでありますが、

『いいかげん働けこのゴクツブシ!』

 と、このように追放されかけたのであります。

 あんまりであります。

 人は生きるために働かなければならない。

 されど働くために人は生きるのではない。

 何が悲しくて額に汗して働かなければならないのでしょう。

 俺はビシッと言ってやりました。

『うるせえバカ!』

 だめでした。

 ちなみに我が家の家計はマオという魔法使いの女の子が定食屋のパートで支えています。パートといっても現物支給で、定食屋の残り物をもらってくるのです。それが我が家の食卓に並ぶのです。

 さっきから俺にボロクソ言ってるのがミツル。ガングロのパツキンギャルです。転生するときに神様に押し付けられました。いらないと言ったのに。あともう一人が家にはいて、ロミーネという赤いツインテールの幼女です。腹をすかせていたところに餌をやったら懐きました。こっちの世界では合法ですのでご心配なく。

 さて、転生した当初の俺は渋々ミツルを連れて、すんごくでかい城で暮らしていたマオを連れ去り、魔王を倒す大冒険に出たわけであります。勇者ですからね。その道中でなんやかんやで怪しげな宗教団体、トモノヒ教をうっかりぶっ潰してしまって、世界は混迷の一途をたどることとなったわけですが知ったこっちゃありません。最強の勇者の俺に逆らう総教皇そうきょうこう(トモノヒ教の偉い人)が悪いのです。

 そんで世界規模で普及していたトモノヒ教の影響が薄いイガウコという街に逃げ込み、そこが物語の舞台となるわけであります。それでこれからどうするのかというと、まあこれといって目的も何もないわけでありますな。あ、魔王討伐? そんなの暇なときにちょこちょこっとやってればいいんですよ。クエストだのダンジョンだの危なくて痛いじゃないですか、絶対。修行だの死闘だのケガしちゃうじゃないですか、絶対。ここ保険きかないんですよ?

 とりあえず彼女のひとつも作ってゆくゆくは婚約破棄にならない程度の婚約ができれば男冥利には尽きるかな、と。あ、そうだ。どこかのお姫様の美人のお姉ちゃんと逆玉決めれば万事解決じゃん。いいじゃん、そうしよう。

 …………などと思う今日このごろ。

 では、はじまりはじまり。

(第1章)

【一日目】

 大騒ぎになったのに乗じてトルカから脱出したのはいいが、これといって行くあてはなかった。今更王都おうとに行っても最悪また処刑場に行くはめになりそうだ。

 そんなこんなでトモノヒ教の影響がない方へない方へ流れていったら、イガウコという街についた。さすがに表立ってトモノヒ教の教義に反することはしていないが、だいぶ緩いところだということで、ここに拠点を構えることにした。

 ここでは遺跡の異端技術が割と積極的に取り入れられ、それは俺たちの知る日本文化があちこちに現れていることを意味する。イガウコの第一住人に、前に知り合った元・神父様/現・科学者の話をすると、あっさり信用され、彼らが日本家屋を再現しようとしていた場所に案内された。街外れの森の中で古文書に書かれた図や絵をもとにやってみたが、やはりそれだけでは限界があり手詰まりになったそうだ。

 俺は早速古文書(俺から見れば図書館にあるような古ぼけた本)の解読を申し出、条件としてここに住まわせてもらうよう交渉した。あっさり受け入れられ、なかばモニターとしてここを無償提供してもらった。

 そこらへんの切り株に腰かけ古文書をパラパラめくっていると、そばの茂みが揺れた。振り返ると、すっかり見慣れた赤い髪と服の女の子が無言で顔を出していた。かと思えば、マオが近づいたのに気づいてすぐに逃げた。

 マオ曰く、小さな赤い女の子の名はロミーネ。自分のあとを追ってついてきたらしい。「追い払いましょう」というマオの申し出に、何もそこまでと止める。まあ多分害はないだろうし。

 とりあえずこんな感じでイガウコに暮らしてからの様子を日記に残しておこうとこれを書いている次第である。

【二日目】

 大枠が完成していたのと、遺跡発掘者(あのギャルいうところの科学者)が結構いたので、新居は俺が古文書片手に指示をして形にはなった。細かいところは追々やっていくとして、これで当座は生活できるというわけだ。

 完成記念ということで科学者達と宴会していると、樹に隠れて物欲しそうにこちらを見ているロミーネを見つけた。取り皿に山盛りの料理をのせて、ここと市街地を隔ててる森の境に置いておいた。

 数分後、きれいに食い尽くされたのを見て、新しい料理の山を用意する。これを五往復したところで、料理はなくなり宴会もお開きとなった。

【三日目】

 イガウコはもともとトモノヒ教の影響があまりなかったので、トモノヒ教が禁忌とする遺跡の発掘はなかば黙認されていた。そのため、この街でそのまま科学者になったのも多ければ、異端技術のせいで迫害されてきた者がよその街からイガウコへ流れてきたパターンも多い。結果、科学者はそこいらの街よりずっと多い。

 彼らによると、トモノヒ教を率いていた総教皇の訃報により、科学者はもっと増える見通しらしい。つまり、遺跡を発掘する人間が増えるのだから、遺跡から取れる遺物も増えるわけだ。

 なんでそんな話を彼らが俺にするかというと、俺にそびえ立つような古文書の山を押し付けてきたからである。古文書とはすなわち俺とミツルが過ごした時代の本であり、この世界でそういった本が読めるのは俺たちだけ。そして解読に積極的なのは俺だけとなると、そりゃこうもなるわな。

 科学者の中にもネットワークがあるようで、今まで誰も読めなかった古文書の翻訳者の登場は、またたに他の街の科学者へ伝わったようだ。イガウコで発見されたもの以外の遺物や古文書までこっちに輸送されてくる流れになってるらしい。とんでもない作業量なのはわかりきっていて、少し逃げたくなる。

 縁側でぼーっと現実逃避してると、草むらにロミーネがいた。飯を渡すとモグモグ食べた。

【四日目】

 とりあえずこの家の建築周りは当然として、調理技術の本を解読することにした。食事は大事だ。この世界に来てからろくなもんを食っていない。食材へのアプローチは手間と時間がかかるので、まずは効果のでやすい調理から改善していこうと思う。

「うまい飯をたらふく食わせてやるからな」

 縁側で料理本を開いた俺に、隣に座って串焼きをかじるロミーネはうなずいた。

「…………ここから先は?」

「なんか飽きた」

 書きかけの日記から俺に目を向けたミツルはあきれた顔をした。イガウコに来てからこれまでを綴った日記なわけだが、だんだん面倒になり、そのまま放っておいたのをこのギャルが見つけた次第だ。

「だんだん書く量が減っていったから嫌な予感はしたんだ」

「三日坊主は乗り越えたからいいんだよ」

「似たようなもんだろこんなの」

 日記を返された俺は腕を組む。

「しかしな」

「なんかの観察日記でも書けばいいだろ」

「観察日記、ねぇ」

 俺の視線に何を思ったのか、この自意識過剰は自分の体を隠すように腕を回した。

「アーシをエロい目で見るんじゃねえよ」

「冗談キツいわ」

 でもギャルの生態には興味があるな、学術的な意味で。

 縁側で足をぶらぶらさせた俺は、隣で日向ぼっこして横になってるロミーネを見る。

 そしたらば……

【改めて一日目】

 あれから数日たったが、改めて日記をつけていこうと思う。今日からロミーネを観察することにした。このごろはすっかり家に居着いており、観察するのが楽だったからだ。正直楽を選ぶならそもそも日記なんてやらなければいいのでは……そんなことを思いつつも綴っていく。

 ロミーネの朝は朝食により始まる。朝食の時間になると起きる。ちなみに朝飯は当初当番制ということだったが、今ではマオの料理修行の場である。[のざわな]で仕入れた材料の余剰よじょうで練習しているのだ。勤務中はウェイトレスが主だから、料理する機会は開店前か閉店後しかない。かといって[のざわな]の女主人にだって仕込みやら仕入れやらがある。自然、復習や予習は自宅で、ということになるわけだ。マオが[のざわな]で働くときは、夜は残り物を持って帰り、朝昼の分はここで作っておくのである。いくら失敗しようが作りすぎようが、最後はロミーネが全部食うのでちょうどよいのである。

 朝飯を食うとロミーネは家の中と外を一周した。どうやらパトロールをしているらしい。それが終わるとまた横になる。お腹いっぱいで眠くなったのかな。

 昼。マオの作り置いた飯を食うためロミーネは起きる。食ったらまた寝た。ちなみに俺はだいたい朝から晩まで古文書の解読作業である。ミツルはだいたい朝飯食ったらどっか行って、昼飯食いに戻って、食ったらまた晩までどっか行く。打ちっぱなしにでも行ってるんだろう。

 夜。マオが帰ってきたらロミーネも起きる。飯食ったら寝る。

 これがロミーネの一日のスケジュールである。

 …………。

 …………。

 …………うーん。

 まあ俺も人のことどうこう言える生き方しちゃいないが、こりゃすげえ。ほとんど寝てる。

【二日目】

 一日目と同じ。

 以下略。

【三日目】

 同じ。

 省略。

【四日目】

 以下同文。

「なにこれ」

「だって初日とそれ以降全部一緒だし」

 呆れ顔のミツルに俺は片手をプラプラさせる。

「ちゃんと観察したぞ」

 俺はそばで日向ぼっこしてるロミーネの顎に指をはわせてうりうりする。「ふす……ふす……」といった声が△の口から漏れた。ちなみに寝てるところにこれをやると不機嫌そうにどっか行ってしまうので注意が必要だ。

「それにそろそろ俺も外出の機会が増えるしな。もう限界だ」

「アータ就職したの?」

「してない。が、まあまあ稼いだ」

「あっそ」

 興味なさげに流された。結構すごいことしたと思うんだが、主観的に。もうサクッと一生分稼いだぞ多分。

「そういうお前こそ普段なにやってんだよ」

「あ?」

「人に稼げだの働けだの言ってるやつが自分は遊びほうけてるなんて言わねえよな」

 どうせ打ちっぱなしなんだろ。愛用の五番アイアンで球ひっぱたいて遊んでるんだろ。

 するとこのギャルも思うところあったのか、心外だとでも言うような顔をした。

「アーシだって銭稼ぎはきっちりやってるし」

「お前みたいなの誰が雇ってくれるって言うんだよ。あれか? エン」

「ちげえよ!」

 まあそっちも需要ねえわな、と俺も納得したりする。

「そんなに見たきゃ見せてやるよ」

「見せて」

 どうやら今日はこいつの稼業を知れるらしい。そこでふと、俺は思った。このままロミーネを置き去りにして家を出てもいいものか。うーん、心配だ。こんな小さな子が留守番してるところに怪しげなおじさんがやってきて……

 そこでロミーネはカッと目を開き、すごいスピードで森に突っ込んだ。すんごい運動神経。俺でなくても見逃しちゃうね。

「あいつ今どこいった」

「アーシがわかるわけないでしょ」

 俺が探しに行こうか悩んでいると、遠くで何かが光った。なんか発光というか、発火っぽかった。

 ややあって、ロミーネが茂みから出てきた。そのちっちゃな手で何かを引きずっている。

 ぽいっ。

 縁側にいた俺たちの前に少女が放り出したものは、なんか焦げてるおっさんだった。なんか忍者っぽい格好してる。

 し、死んでる……

「う、うぅ……」

 あ、生きてた。

「とりあえず……」

 俺はスコップを取り出す。

「埋めるか」

「オイコラ」

 ミツルに止められ、しかたなく介抱する。といっても、回復魔法を使えるやつもいないし回復アイテムもないから、水かけて水飲ませるだけだが。

「降参。死にたくない。よって助命希望」

「あ、はい」

 完全に心が折れたのか、その後べらべら喋り出した。名をヒガン。依頼人は殺されることになっても教えられないが、そいつの依頼で俺たちを探りに来たらしい。そこで敷地内の森(厳密にはこの家は街外れの森に隠れるように建てただけで、森全体が敷地というわけではない)に潜入したところ、ロミーネに速攻で排除されたと。

「どうすんのこいつ」

「まあ反省してるみたいだし……」

 変に始末するとまた誰か来そうだし、ここは見せしめ的な意味で返してやった方がよさげだ。

「とりあえず俺たちに今後いらんことしないと誓うこと。あと誰かが似たようなことしようとしたとき止めること。神に誓ってできる?」

「《神に誓って》了承」

「じゃあもういいよ」

「感謝感激雨霰」

 そう言い残し、香ばしい残り香で去っていく男。多分あれ、アサシンとかしのびとか、そういう職業なんだろうな。回避高くて隠密特化の。

「これなら留守も安心だな」

 とりあえず俺は縁側まで戻ってきたロミーネを見る。

「番犬、みたいな?」

「そういうこと」

 ミツルにうなずき、俺はそこはかとなくドヤ顔してるロミーネの顔を撫でまわす。「ふすふす」鼻から息をもらし、少女はただでさえ眠そうな目をさらに細めた。おーよしよし。

「で、どうやって稼いでるんだよ」

 イガウコ市街、俺とギャルの二人は道を歩く。

「冒険家やってるわけじゃないんだろ」

「アーシみたいなかよわい女子がそんなことするわけねーだろ」

 かよわい……?

 冒険家協同組合事務局は当然に通り過ぎ、さらに結構歩いたところ、俺はとある施設にいざなわれた。

「ここだ」

 それを見上げた俺は妙な懐かしさを覚えた。

 ギラギラした外装の、無駄に派手で、たっぷり射幸心しゃこうしんを煽る、いかにもといったデザイン。

『賭博場』

 カジノだこれー。

「こっちだ」

「お、おう」

 勝手知ったる我が家のように自然な動作で入店するギャルに俺はついていく。

「アーシの貯メダル出して。一ケースで」

 カウンターで会員カード片手にそう言った常連客の前に、ガシャッとメダルのつまった箱が置かれる。

 ザワザワ……ザワザワ……

 室内ではカード、サイコロ、ルーレット、スロット……様々な遊技台が並べられていた。かなり広い空間にもかかわらず、そこにはある種の熱気がこもっていた。

『あいつは……』

賭場とば荒らしだ』

『今日はどこをかっさらうつもりだ』

 なんかめっちゃこっち見られてる。

「今日はこれにすっか」

 しかし当人はなんのその。遊技台のひとつを選んだミツルはそこにドカッと雑に腰かけ、メダルをすべてディーラーに預けた。

「全ツッパ。マスはそっちで適当に選んどいて」

 こいつの後ろに立っていた俺は思わず振り返っていた。それまで遊んでいた客がこいつ目当てに集まってきたからだ。

『ゴッデス、今日はどこ?』

『ルーレットだってよ』

 なんかよくわからん異名までついてるし。

 ディーラーはメダルの箱を預かり、代わりにチップを取り出した。それをそのままテーブルに描かれた数字のひとつに置いた。

「それではベットすべて、黒の8、ストレートアップでよろしいでしょうか」

「ああ」

 これに周囲は歓声。なんだなんだ。

「ゴッデスの連れ?」

「ええ、良くも悪くも」

 困惑してたら、そばに来ていた男がご丁寧に解説してくれた。短い髪の柔和な青年によると、ルーレットというゲームは、ウィールと呼ばれる数字の刻まれた回転盤を回し、ディーラーがボールを入れる。そのボールがどこのポケットに収まるかを当てるゲームだそうだ。外せばベット――つまり賭けた金――は没収、当たれば配当がついて儲かる。ちなみに後で古文書で調べたらルーレットの誕生は一七世紀のフランスだそうだ。

 ストレートアップとはルーレットの賭け方のひとつで、およそ四〇ある数字の一個に賭けるのだ。倍率は三六倍。つまりミツルは手持ちのメダルをすべて一点賭けしたわけだ恐ろしい。

 ディーラーがベルを鳴らす。参加締め切りと開始の合図らしい。

 結局ミツル以外は誰もおらず、ミツルとディーラーのタイマンみたいになった。

「半々なんだよ」

「はぁ」

「『ゴッデスを信じれば後乗りすれば勝てる。しかしあまりにもめちゃくちゃで信じきれない。だから降りる』。それと『ゴッデスを信じずに逆張りすれば外したときに損をする上に恥さらしだから乗らない』。結局、誰もゴッデスと場は持たないのさ」

「ははぁ」

 気持ちはわからんでもない。いろいろ考えると不安になってドツボにはまるのがギャンブルというものだ。そして大多数が導き出す答えは『静観』。安全圏から事を見守るのが財布にも精神にも優しく楽しめる。

「それでは、《神に誓って》公正に、回させていただきます」

 ウィールが回転し、そこにボールが投入される。

『今回も総取りか?』

『いやいくらなんでも。ディーラーが選んだ数字だぞ』

『ディーラーも真実の呪文を使ってる。サマはないだろ』

 ギャラリーがやくたいもない予想や解説をしている。実際、ここまで勝つのにイカサマは使われていないだろう。イカサマとは、緻密な計算や非凡な努力で成立する。この馬鹿ギャルには縁遠いものばかりだ。

 イカサマではない。

 使っているのはどうせ――――

「…………〈ラーク〉」

 ルーレット台と地続きのテーブルに手をついたミツルの口から漏れた声に、俺は呆れを覚えた。

 はたして盤面のボールはディーラーが自ら指定したポケットに収まり、ギャラリーはその奇跡にわいた。その奇跡は立て続けに起き、とうとうルーレットに設定された店側のメダルの貯蔵は枯渇した。事実上続行不能である。

「全部預かっといて」

 顔面蒼白になってるディーラーをそのままに、ミツルはさっさとその場を去った。あとに残ったのは、インチキギャルの座っていた席に残されたドル箱の高層ビルである。

「きたねえよ」

「なにが?」

 帰り道、荒稼ぎしてドヤってる馬鹿に俺は苦言を呈した。

「アビリティ使って確率いじってんじゃねえか」

「だから?」

 確率変動。おそらく、世界中でこいつだけが使えるアビリティだ。神様の寵愛を受けたこいつは、あらゆる確率が収束する瞬間に干渉し操作できる。

「自分の能力使って金稼いで何が悪い」

 俺も割とからめ手で稼いだが、これはいくらなんでも……しかし不正ではない。よしんばこのアビリティをあの場で公表したとしても、それを証明できる術はない。しょせん確率など、人知のおよばぬ、まさに神のみぞ知る領域なのだから。

「まさかこれまで全勝か?」

「アーシが負けるわけねーじゃん」

 うがぁ。俺は頭を抱える。

「いったん負けろ」

「なんで」

「あのままだと出禁食らうぞ」

「ズルしてるわけじゃねえのに」

「空気を読め。あれじゃでっち上げでもなんでも店側が排除する。目立ちすぎだ」

「人間ってホントわかんねー」

 頭で腕を組んでぼやくギャル。

「短期で後腐れなく荒稼ぎするならそれでもいいけど、長い目で見ればちょいちょい負けた方がいいんだよ。それこそ店すっからかんにしたら潰れるだけだろうが」

「それもそうか」

 馬鹿はようやく理解したらしい。

「それと、金は全部あのカジノに預けてるんだな」

「持ち運ぶのメンドーだしな」

「それもやめろ」

「あ?」

「店が潰れたら引き出せなくなるし、出禁じゃなくてもその貯蓄に細工をする危険だってあるからな」

「で、どうしろと」

 リスクマネジメントってやつだ。金は一か所に固めず散らしておいた方がいい。

 その方法は、

「俺の持ってるギルドの一つを貸してやる。その倉庫を使え」

「アータってギルマスやってんの?」

「おう。ちょうどいいから俺の稼ぎも見せてやる」

 行きは通り過ぎた冒険家協同組合事務局に立ち寄る。俺の担当受付嬢は多忙らしくいなかったので、そのままギルド区画へ直行した。

 冒険家協同組合事務局は冒険家関連の設備はもちろんのこと、冒険家が組織したギルドの施設も管理している。ギルドには一室が与えられ、倉庫も割り当てられる。

 〈ナラガ〉

 現在、俺が在籍しているギルドである。このギルドが所有する倉庫に、俺がかき集めたアイテムやら金やらが蓄えられているわけだ。

「ああ、すまんね」

 中に入ると備品係のオッサンが挨拶した。

「所有権移転は終わったんだが、現物はまだ区分できてなくてね」

「お気になさらず。気が向いたときでいいっすよ」

「げっ」

 後ろから不細工な声がした。

 ミツルが驚くのも無理はない。書類上ではたしかに扱ったが、俺も目の前で実際に見たときはたまげた。

 競泳用のプール。

 広さはそれくらいだ。

 ここから一番奥にうず高く積まれたアイテムの山があり、その裾野の位置に分けられたアイテムが箱に納まっている。分別はまだ全体の百分の一にも達していないだろう。

「お金については最優先で集めたから、全部使えるよ」

 備品係の指先を目で追い、少し離れた場所にみっちり詰まった袋が何個も積まれている。あれが現金袋だろう。

「何個かプレゼントしましょうか?」

「いや遠慮しておくよ」

 俺の申し出にオッサンは苦笑した。

「受け取ったら働くのが馬鹿らしくなる」

「そうですか。…………んで、だ」

 職務に戻る備品係から、後ろでフリーズしてるギャルへ向く。

「こういう倉庫が一ギルドに一つあるから、そこを使え」

「いやいや、待てや」

 再起動したミツルは、

「なに? 犯罪?」

「合法的に手に入れたぞ」

 正直もらいすぎた感は俺もあるが、かといって塩漬けのままってのももったいないし、もらえるものはもらっておいて損はないわけで。

 結局、昼間は俺がいかにしてギルドで儲けたかを頭の軽いギャルに根気強く説明しつつ、ギャルの資産を分散させるだけで終わってしまった。

 その日の夕方、俺は冒険家協同組合事務局の応接室にいた。あの一件以来、俺の事務局内の地位は上がったらしく、受付ではなくここに通された。

「こちらが今日の参加奨励品です」

 俺の担当受付嬢が卓上にアイテムを並べていく。いわゆるログボで、ギルドに入っていればギルドメンバー分と冒険家分の二重取りができる。

「装備強化の魔石です」

 紫の石がいくつかある。大きさは拳大ってところか。

「装備の強化以外にも修復や維持にも使用できます」

「あー」

 俺、これいらない。これといった武器も防具もないからな。

「こちらはどうされますか。持ち帰られるかギルドストレージに……」

「それ金に替えてくださいって言ったらどうなります?」

「交換手数料をいくらかいただくことになりますが」

「なるほどね」

 そこらへんは抜け目がない。結局手数料分損するなら、自分で売りさばいた方がマシか。

「とりあえずログボ……今後の参加奨励のやつは全部ギルドストレージに放り込んどいてください」

「承知しました」

「というか、最初から全部現金にしてくれますかね」

「それはちょっと」

「出来かねます」

 入り口の方から声がした。応接室は入り口の正面に仕切りがあり、応接中の人間と入室者を視覚的に隔離している。

「参加奨励制度の原資は冒険家協同組合が依頼されたときにいただく金品です。それを全体に再分配している格好となります」

 どっかで聞いた声だな、と思いつつそちらを見る。

 声の主は仕切りからこちらに出てきた。 

『あ』

 俺と相手の声が重なる。

「あ、初対面ですね。ご紹介します。当支部の支部長です」

「支部長ね……ほーん、支部長ね」

 受付嬢の説明に俺は意味深に笑う。

 その爽やかイケメンの見た目は忘れるはずもない。真っ昼間にカジノで事情通やってたやつだ。

「支部長ってのはさぞ多忙な地位なんでしょうな」

「それはもう。支部長会に出たり、イガウコ内を視察したり。休息の暇もございません」

 さらっとカジノ遊びを視察扱いしつつ、男は受付嬢の隣に腰を下ろした。

「最近、わがイガウコにも人の流動が盛んにありましてね。たとえば森の中に奇怪な新居を構えたり、住民の憩いの場である賭博場が荒らされたり……」

「へー、そうなんですか」

 白々しい声で反応しつつ、

「気になって夜も眠れないでしょうね。自分で視察する以外にも、わざわざ人を雇って調査したりもするんでしょうね」

 探りを入れてみる。

 目の前の男に動きはない。動揺はないと見るべきか、フリーズしたと見るべきか。

「そういえば当支部随一のシャドーが焼け焦げて戻ってきましたね」

 シャドーとは盗賊や隠密に分類される職業だそうだ。

「何が起こったかは口を割らず、ただ『あそこには手を出すな』の一点張りで」

 支部長はどうでもよさげに――まあ、多分本当にどうでもいい程度なんだろうが――言った。

「いったいどんな番犬が飼われているのか」

 犬ってより猫かな、あれは。

「最近はなにかと物騒ですからね」

 蚊帳の外の受付嬢が何も知らずに気軽に話に入ってきた。

「ヨハネス・ブ・ルーグの乱からずっと、何かが変わっていくような」

「ヨハネス・ブ・ルーグの乱?」

「知らないんですか。無実の罪で処刑されんとした少女をヨハネス・ブ・ルーグなる者が己の身ひとつで救い出したという。今一番話題なんですよ」

「へー」

「処刑の場に立ち会った、かの総教皇とトモノヒ教選定勇者はその際に死んでしまって、教団の崩壊につながったんですよ」

 支部長は一瞬複雑そうに空を仰いだが、すぐに戻した。

「なるほどなるほど」

 思い当たる節がある。

 しかし、

「そんなやついたかな……」

「なにか?」

「いや、なんでも」

 支部長の追及をさらりとかわし、俺は顎に手をやった。

「ヨハネス・ブ・ルーグ……いったい何者なんだ……」

「いやはやまったく」

 目の前の男は目を鋭くさせた。

「何者なんでしょうね」

 まあ、そんなわけで、と支部長は付け足す。

「現在は教団の権威は失墜し、世は千々ちぢに乱れ、といった有様です。今後は教団によって統治・安定されていた世界は秩序を失い、無軌道に進み始めるでしょう。それが何をもたらすかは誰もわからない。ヨハネス・ブ・ルーグがもたらしたものは、そういった変革なのです。良くも悪くも定まり切った定めが勢いよく流れ変わっていく」

「大変そうですね」

「他人事みたいに言わないでくださいよ」

 しれっと言ったら受付嬢にツッコまれた。

「そんなぁ。俺はここでのんびりスローライフを送ろうと思ってたのに」

「私だってもっと無難に平穏に過ごしたかったですよ」

 彼女のぼやきは難聴系主人公の特権でスルーする。

「まあともかく」

 そこに支部長が割って入る。

「教団の影響がある市街や集落はもちろん、教団からほとんど独立していたこのイガウコも変革されていくでしょう。教団の支配や庇護がなくなった以上、独自の勢力が台頭する。それが冒険家協同組合なのか、まったく別の力が働くのか……いずれにしても、我々は管轄区域を警護する使命と責任があります」

 猛禽類が獲物を見定めるように、彼は俺を見た。

「住民間での生活や経済上の衝突や競争はともかく、一方的・不法的な侵害行為はなさらぬよう」

 ふむ。釘を刺される話に落とし込まれたな。

「もちろんでさあ」

 ただ、その忠告に異論はない。ルールを守らないものはルールにより討たれる。逆を言えば、ルールを守ってるうちはルールを仕切る勢力に保護される。むやみやたらにルールを破って好き放題するのは愚策というものだ。

「失礼します」

 応接室にもう一人受付嬢が入ってきた。たしか俺の担当受付嬢の指導係だったか?

 その女性は俺の担当に耳打ちする。すると後輩は驚いたような呆れたような顔をして、

「すみません、ほかの担当冒険家の件でちょっと」

 つまり席を立つということだろう。

「ああ、じゃあもう出るよ」

 だったら俺もそれに合わせよう。

「では今回はそういうことで」

 支部長の鶴の一声で、その場はお開きとなった。

「装備強化の魔石はこの山だね」

 帰りがけ、自分のギルドストレージに行くと、まだ備品係は働いていた。

「こんだけあれば引退するまで装備の整備は困らないだろうね」

「いやそもそも使わんのよ」

「だったら配ったら?」

「タダで配るのはなんかやだ。もったいない」

 MOTTAINAIの精神は大事だ。これは未来だろうが異世界だろうが失ってはならない心意気だ。

「となると自力で売りさばくしかないねえ」

「なんかいい商人のツテとかない?」

「そういうのはちょっと。それにイガウコじゃどこで売っても買取価格は一緒だよ」

「なしてや」

 ゲームじゃありがちだけど、よくよく考えたらおかしなことだ。いろんな店があって、商人がいて、なんで価格が統一されているのか。もっとこう、特色というか、価格競争があってしかるべきだろう。

「『なしてや』言われても。商人の間でそうなってるんじゃないの? 教団や冒険家協同組合は介入してないから、商人たちの私的自治だよ」

「うーむ」

 こうなりゃ商人たちの世界に突入してみるか。

「この魔石の山は好きに出し入れしていいんだろ?」

「そりゃもちろん。ただ出し入れしたもののメモくらいは残してもらえると管理上助かるね」

「OK牧場」

「牧場?」

「昔流行ったんだよ」

「へー。なんで牧場?」

「知らね」

 翌日、俺はロミーネを連れて商店街にいた。

「装備強化魔石の買い取り? それじゃひとつ合銀貨一枚ね」

「もっと高くならない?」

「これが規定価格だから」

 道具屋の主人に交渉を持ちかけると、予想通りの塩対応だった。

「そんなの誰が決めたんすか?」

「ハンザといってね、商人ギルドみたいなもんがある。イガウコで商売するやつは基本強制加入してる。そこが決めた通りの値段で売り買いするのさ」

「つまりイガウコじゃ全部同じ値段なんすね」

「そういうこった」

 それが統一価格のからくりってところか。どうもそのハンザってのが臭いっていうか煩わしいな。

「まあハンザの決定ていうのは実質そこを仕切っているリュベークが決めてるんだけどな。そいつが決めた値でみんなやってるわけさ」

「そのリュベークってのも商人なわけ?」

「イガウコで一番でかい商店の店主がリュベークだ。そこの価格を見てみんな合わせてるってのが実情だな」

「それじゃそのハンザに入らなきゃ従ういわれはないわけだ」

「そりゃそうかもしれんけど」

 なんとも歯切れの悪い答えだ。

「お客さんひょっとして自前で売りさばこうとしてる?」

「なんか文句ある?」

 ここで商売するにはハンザに入らなきゃならない。そうなると価格はリュベークとかいうのにコントロールされる。とすれば、ハンザなんぞに入らずに自由に商売すりゃいいのだ。

「ハンザに入らなきゃいけないみたいな流れは、どうせリュベークってのが言い出したんだろ?」

「そりゃそうだけど……やめた方が」

「なしてや」

「それはその……」

 しどろもどろになった主人は結局それ以上は語らず、

「ともかく、止めろとは言ったからね」と会話を打ち切った。これ以上追及しても情報は出てこないだろうと判断した俺は、とりあえず少し離れたところにゴザを敷いた。

 装備強化魔石の取引価格は、買い取り価格が合銀貨一枚で店頭価格が純銀貨一枚。合銀貨一〇枚が純銀貨一枚分であるのだから、儲けは合銀貨九枚といった計算だ。装備強化魔石を一個合銀貨一枚で仕入れて一個純銀貨一枚で販売するわけだからな。

 一方、俺の場合は仕入れはタダだから、売れば売るだけそっくりそのまま儲けになるわけだ。

「お、安いね」

 値札を置いて商品を並べていると早速誰か来た。顔にいくつか傷を作った青年が武装していて、いかにも冒険家といった風貌だ。

「ひとつ合銀貨九枚でいいのかい?」

「いいよ」

 とりあえず単純に規定価格から合銀貨一枚引いた値段にしてみた。

「在庫は?」

「一〇〇個ばかし」

 それ以上は持ってこれなかった。

「じゃあ一〇〇個全部もらおうか」

「そんなに」

「腐らないし冒険家稼業じゃいくらでも使うからね。安い時にまとめ買いしとくのさ」

 なるほどなー。

「じゃ合銀貨九〇〇枚だから合金貨九枚ね」

 ニコニコ現金払いで渡された。ちなみに合金貨は純銀貨の十倍だぞ十倍。

「ああ、まとめ買い割引で八枚もらうよ」

 俺は一枚返した。すると驚いた顔をされた。

「え? いいのかい?」

「まあ、開店セールってことで」

「それは助かる。今後もひいきにさせてもらうよ」

 逆に礼を言われてしまった。

 袋を抱えて去っていく冒険家を見送って、俺の目は隣で寝転んでるロミーネへ向いた。

「売り切れになっちまった。また取ってくるからちょっと待ってろ」

 ロミーネは眠そうにうなずいた。とりあえずで一〇〇個持ってきたが、まさか瞬殺とは思わなかった。

 要はハンザで買い取らせるより高く売って得すればいいのだ。普通に買い取らせると一個あたり合銀貨一枚しか得しないが、これなら合銀貨九枚で儲かる。商売をするのにくだらんしがらみなど邪魔になるだけ。それをわからないまま従属するなど愚の骨頂。

「よし。これだけあれば大丈夫だろう」

「今度はなに始めるんです?」

「在庫整理だ」

「備品係の人も倉庫がパンク寸前って言ってましたからね」

 戻ってきた俺についてきた担当受付嬢は納得する。

「頼まれた分は全部運んだで」

「おう。ご苦労さん」

 浮浪者の一人の報告に俺はうなずく。

「さすがにここまで持ってくるのは備品係の管轄外と言われてな」

「こんなに運ばせたら過労死しちゃいますよ、あの人」

 受付嬢がうず高く積まれた袋の山を見上げる。中は全部ギルドストレージに眠っていた装備強化魔石だ。ちなみにこれでもほんの一部であったりする。

「それじゃスカウト制で依頼したってことで。これ依頼料」

 俺はさっき稼いだ金貨八枚を受付嬢に渡す。

「たしかに。それでは後はこちらで処理しておきます」

 自力で持ってくるのも手間なので暇してる浮浪者たちに運搬は頼んだ形だ。

「みなさん戻ったら報酬分配しますよー」

『うおおおおおおおおおおおおおおお』

 受付嬢の言葉に、浮浪者兼冒険家の面々は喜びの声。

「よっしゃ! 今日はみんなで[のざわな]行くぞ!」

「贅沢するとなったらあそこしかねえしな!」

「マオちゃんが俺たちを待ってるぜ!」

 多分あいつはそこまで君らのこと待っていないとは思う。

「わざわざ事務局を通さなくても、普通に頼めば手伝ってくれたと思いますよ」

「形だけでもギルドや冒険家の活動実績はあるに越したことはないだろ」

「そういうことですか。ご配慮くださりありがとうございます」

 ログボ目当てのタカりみたいになってると、この頭を下げる彼女にも心苦しいしな。

 わらわらと冒険家協同組合に戻っていく一団に軽く手を振ってからゴザに腰かけると、ロミーネは相変わらず丸まっていた。かと思えば立ち上がり、どこか行った。トイレかな、と思っていたら、手に何かを持っている。少女はそれを自分の前に置いてから、またごろんと横になった。

「?」

 これには首をかしげる。こんなボロ皿が売り物になるのだろうか。

 まあ邪魔になるわけでもなし。好きにさせておこう。

 …………。

 …………。

 …………。

 客来ねえな。

 うーん。最初にスパッと売り切れたのがよくなかったかな。

 なまじ最初にうまくいったから変にハードル上がったというか、期待しちゃったというか。これが本来のあり方なんだろうな。いきなり露天商はじめてポンポン客が来るわけもなし。振り返れば、元いた世界も露天商やってたやつらってすげえ暇そうだった。

 ヒュ~。

 何もしていない上に風除けもないから寒さが身に染みるぜ。

「うう。さぶ……」

 肩を抱いて何か暖を取れるものを探し……

「おお、これだこれだ」

 隣のロミーネを引っ掴んで抱えた。

「あったかあったか」

 子供特有の高い体温か、はたまた炎の精霊の恩恵か、これは素晴らしいカイロだ。こんなこともあろうかと連れてきてよかった。

「おお、なんと」

 二人で身を寄せ合って寒さをしのいでいると、老紳士がやってきた。身なりがいかにも金持ちです、と物語っている。

「おかわいそうに」

「あ、いらっしゃい」

「少ないですが、これを」

 老紳士は懐から銀貨を一枚取り出すとボロ皿の上に置いた。

「あの、これ、商品」

 そのまま去ろうとする老紳士は俺の声に首を振る。

「いやいや。結構」

 え? 

 これなに?

 どういうこと?

「あらあら。まあまあ」

 続いてやってきた、いかにも主婦っぽいおばさんは心配そうにこっちを見て、

「お母さんに逃げられたのね。かわいそうに」

 そのまま銅貨を数枚、足元の皿に転がし、

「少ないけど、何かの足しにしなさい」

 同じくそのまま去っていった。

 この流れが数回。

 商品は売れず、おんぼろの木皿には小銭が積み重ねって山になった。

 ロミーネはその皿を持ち、俺に無言で差し出した。

 いや、これそういうんじゃないから!

 在庫整理で損しないように売りさばいてるだけで、金を稼ぎたいわけじゃないから!

「おお、まだやってた」

 ガヤガヤしてる声に振り向けば、さっき買い占めていった冒険家がやってきた。

「さっきの話をしたらギルメンも欲しいって話になってね」

 後ろの仲間たちを親指で差す。軽く十人はいるな。

「あるだけ買わせてもらうよ」

 結局、その日の仕入れはこれで全部さばけた。

 よくよく考えたら、わざわざここまで移動して販売する必要なかったんじゃないか?

 装備強化魔石なんて、冒険家にしか需要がない。こんな市街地じゃなくて冒険家が頻繁に出入りする冒険家協同組合事務局で売った方がはやい。

 次からはそうしよう。

 金のたっぷりつまった袋を担ぎつつ、俺はロミーネと帰路につく。少女の小さな手には小銭の入った皿が相変わらずあり、所在なさげにジャラジャラ揺れている。

「その金は自分用にとっときな」

 と言ったのだが、特にこれといった反応はない。

 うーむ。

 思えば、こいつが金を使ったところなど見たことがない。

 そもそも金の使い方がわからないのか。

 はたまた財布は持ち歩かない主義なのか。

 なんというか、まいったね。

 こいつの金を受け取るのは、なんとも心苦しいというか、みっともないというか。

 金欠ってわけでもないしなあ。

「お」

 なんとなく眺めていた店の群れに、『これは』といったものを見つけた。

 そこで俺はその店に入ることにした。

 その店は鍛冶屋だった。

 だが、目的は剣とか鎧とかそういうのではない。

 旧[のざわな]もかくやといったぼろい店内では、奥でいかにもなオヤジがこちらに背を向けてカンカンと鉄を打っていた。

「い、いらっしゃいませ」

 その娘らしい少女がこっちにきた。無骨な作業着に、ぼさぼさの長い髪は後頭部でまとめられてる。

「剣をお求めでしょうか、それとも何か精錬してほしいものが」

「あ、そういうんじゃなくて」

 俺は親指で店先に設けられた棚を指す。

「あそこで飾られてる小物ってここの商品ですよね」

「えーと、それは私が作ったもので、売り物というか……飾りというか……はい」

 なんとも歯切れの悪い答えだが、見た感じ、この店はさっぱり流行っていない。そこから察するに、せめて彩りだけでもというにぎやかしで、通りに面する棚に陶器製の小物を置いているのだろう。

 そう、店先には鍛冶屋に似合わず陶器でできた小物が置かれている。動植物を模したものから、様々な形と大きさの器、アクセサリーといった顔ぶれだ。

「ああいう感じで、ちょっと作ってほしいのがあるんですけど、頼めますか?」

「あ、はい。私に作れるものなら」

 俺はロミーネを抱えて、棚の上段に彼女の目線を合わせた。その段には、多種多様なファンシーなデザインのインテリアが並べられていた。何が好みか選ばせた俺は、鍛冶屋の娘にそれを伝える。それから、

「大きさはこれくらいで、中は空洞にして、てっぺんには切れ目を入れてください」

「切れ目、ですか?」

「これが一枚ずつ入るくらいで」

 俺は袋から一種類一枚ずつ、都合六枚の硬貨を彼女に渡した。

「うわぁ金貨。初めて見た」

 金色のは初見らしい。どんだけ儲かってないんだこの店。

「それじゃ、よろしく。依頼料はその六枚で」

「あ、はい。……え。…………え? え――――!」

 背後で騒ぐ声をそのままに、俺はロミーネを連れだって家に帰った。小さな手が持つボロボロの皿の上では、出番を待つように銀貨と銅貨が右往左往している。

 それから数日後のこと。

 ある昼下がり。

「ったくよ」

 今日も今日とて縁側に面した居間で翻訳作業をしていると、ぶつくさ言ってミツルが帰って来た。

「早かったな」

「アータの言う通り負けたら大ブーイングでさ、なんか気まずくなった」

 それでぶすぶすと戻ってきたわけか。

「それでいい。常勝無敗なんて賭け事じゃタブーだ。適度に負けておけ。トータルで勝っているのがバレない程度がちょうどいいってもんだ」

「まー、多分一生分は稼いだろうし、どーでもいいけどさ」

 こいつの目は俺から、縁側で日光浴をしているロミーネに移る。

「ほんと気に入ってるわね」

「オーダーメイドだしな」

 陽の光を浴びて横になるロミーネの手には、デフォルメされたライオンの貯金箱が握られており、小さな頬とくっついていた。

「金使わないなら財布持たせるより、こうする方がいいだろ」

「かもなー」

 めんたま飛び出るくらいの依頼料だったためか、その貯金箱の出来は素晴らしいもので、職人芸といっても過言ではない。鍛冶屋としてどうかはともかく、あの娘はその道のアビリティが十二分にあるらしい。

 陶芸家か。

 俺は古文書に視線を戻す。

 今後も付き合いがあるかもな。

 〝炎獅子えんじし〟の異名いみょうを持つ少女が身じろぎする。

 その小さな手の小さな獅子が、ちゃりんと腹を鳴らした。

(第2章)

 ――――『あの頃はよかった』なんてフレーズは、もっと後に使うものだと思っていた。

 愛した人と開いた店がうまくいって、子供が生まれて、やがて老いて、大きくなった子供が店を継いでくれて、二人仲良く静かだけど、どこか物足りない気分で、ふと、そんなことを思うんだろうな、と。

 漠然と思って――期待していた。

 しかし現実は過酷の一語で、生涯をともに過ごすと誓った人はあっけなく先に逝き、あまり繁盛していない食堂だけが私に残された。『これからはあんた一人で切り盛りしていくんだね』という近所の人の言葉も、うまく飲み込めなかった。

 目の前の事実が受け入れられなかった。

 ぽっかりと、胸に大きな穴が空いていた。 

 そんな気持ちのまま、店も私も寂れて時は流れていた。

 あの子が来るまでは。

 朝になり、もはや習慣というか惰性で店を開き、厨房に座り込む。最近は、ここでずっと座って一日が終わる。夜になれば店じまいをして誰もいない寒い寝床に入る。

 ただそれだけの日々。

「うーん。やってるんだよな? これ」

 店の前で声がして私は顔を上げた。すっかり汚れた扉の向こうに揺れる影があった。

 ガタガタ。ギー。

 おんぼろの戸をなんとか開けて、誰かが入ってくる。

 一人の男の子だった。少年と青年の狭間のような、そんな年頃。

「ちわーっす」

「あ……いらっしゃい」

 お客だ。少し遅れて、そう察した。来客。久しぶりで、すっかりなじみがなくなってきた感覚だ。

 空いてる席に案内しようとして、全部空いてることを思い出し、それからロクに掃除していなかったことを痛感し、結局ふきんでさっと拭いて、わりかしまともな席に座ってもらった。

「ご注文は」

 と尋ねると、

「あー注文は……いや、やっぱり食べておこうか」

 彼はそんなことを呟いて、

「一番うまいと自信のあるもので」

 人差し指をたてて、そう注文した。

 言うまでもなく、メニューにあるものならすべてまともに作れる。その中で一番うまいものとなると、結局、どれだけ良い素材で、その素材の良さをどれだけ引き出せるか、ということになる。

 仕入れは――数こそ昔よりずっと抑えているが――きちんとやっている。夫とやってきた頃そのままだ。安価で良質な素材。それをもっとも活かすとすれば、変にいじらずに出せる料理。

「鳥のステーキです」

 テーブルに置いた一皿には両面を焼いた鳥の肉がある。私も夫も好きな料理だ。

「いただきます」

 一言いって、彼は焼かれた肉を器用に一口大に切り分けて口に運ぶ。その作法から、一定の教養ある知識人だと察した。しかしなんでそんな人がこの店に……?

「鳥の肉に塩を振りかけて焼いたのかな」

「ええ、その通りです」

 割とメジャーな料理であるから、見抜くも容易であっただろう。

「この世界……ここらへんでは、調理っていうのは、焼くか茹でるかくらいのもんかな」

「ええ。そうだと思います」

 他に何があるのだろうか。今まで生きてきた中を振り返るが、調理というのはその二択である。もっと原始的に考えれば、あとは切るかそのまま出すか……

「やっぱそういうことか」

 彼は何かを考えこんだようで、私は彼の考えが読めずに悩むことになってしまった。

「ここって、もう閉めるんですか?」

「えーっと」

 まだ日も高い。閉店時間には程遠いが、正直開けていたところで、という思いはあった。

「夜までやってますよ」

 形ばかりの答えをとりあえず返した。

「いやそうじゃなくて」

 彼はわずかに眼を鋭くさせた。

「この店、もう畳むつもりなのかって、そういう話」

「…………」

 今度は返す言葉がなかった。

 店の外から中に至るまで、誰が見たってやる気など感じられないだろう。老衰一歩手前の寝たきり老人のような状況だ。それにここじゃなくても、食べ物を出す店などイガウコにはいくらでもある。わざわざここで食べる必要などない。夫と二人三脚でやっていた頃はそこそこの客足があったが、今となってはそんな客すら寄り付かない。

 どん詰まりなのだ。

 誰も口に出さないだけで――近所では噂になっているかもしれないが――、この店はもう余命いくばくもない。それは自分でもわかっていた。

「畳むつもりはない、よ」

「まあ開いてるわけだから、そうなんでしょうけど。外から見たら開いてるんだか潰れてるんだかわからなかったけど」

「まだこの先も店をやっていくつもり……」

「いや無理でしょ」

 一片の情けもなく断言された。

「これといった売りもない廃墟同然の潰れかけの店が、なんのテコ入れもせずにこのまま立ち直るとでも?」

「それは」

「それとも黙っていればある日なんかの奇跡が起きて行列店の仲間入りなんて夢でも見てるんですか?」

「…………」

「これが年寄りのやる店なら道楽かなとでも思うんですが、あなたこの先どうやって生きていくつもりですか」

 今まで見て見ぬふりをしていたことが突き付けられる。実際、その通りであった。ただ誰も来ない店を開き、誰も来なかった店を閉め、残り物で飢えをしのぐだけ。蓄えがそのうち尽きるであろうことにおびえ、やがて……

「じゃあ、どうしろって言うの」

 私でも誰に言ったかはっきりしない嘆きだった。

「私だってわかんないの。ほかにどうすればいいの」

 惰性だせい

 その一言に尽きる。

 夫と開いた店をただ、夫と過ごした日々を再現するかのように続けただけだ。相手がどうとか商売がどうとか、考えたことはまるでない。客が来ないのも当たり前なのだ。

 頭ではわかっている。

 でも。

「これしかないの。店を守ろうとしても、ほかに方法なんて」

 批難というより、もう愚痴だった。夫に先立たれ、自分だけがこの店に取り残された。夫の後をさっさと追えば潔かっただろう。でもそれは、夫の『店を頼む』という遺言が止めた。夫は多分、私には生きてほしかったのだろう。けれど、これでは死んでるも同じだ。生きているとは言えない。一気に死ぬか緩やかに死んでいくかの違いだ。

 生涯をともに生きると誓った男を失い、その忘れ形見の店とただ心中する女。

 それが今の私。

「つまり店を続ける気概はまだあるわけか。あー、よかった」

 彼は心底安堵したような顔をして立ち上がった。

「それならまだやりようはいくらでもある」

 懐から銀貨を取り出して並べていく。

「また来ます」

 お代を置いていき、彼は去っていった。

 ただおちょくりに来ただけなのだろうか。

 銀貨を拾い集める私は、多分そうではないと思った。

 根拠はない。

 でも、なんだか彼が本当にまた来る気がしてきて、そのとき彼は私の思いもしないことをして――――

 ――――良くも悪くも、何かを変えてしまいそう。

 そんな期待や不安があった。

「待たせたな」

 はたして昼過ぎに、あの少年はやってきた。数時間しか経っていないのだから、そんなに待ってはいないけど、久しぶりの人との触れ合いに心が躍るのを感じた。

「油は?」

 厨房を調べる彼に私は首を振った。

「そんなの置いてないわ」

 油なんてべとべとするだけのもの。溜めて持っているわけがない。

「じゃあとりあえずで作るか。鳥の肉があるってことは鳥の皮もありますよね」

「あるけど……そこは廃棄する部位よ」

「上々」

 鼻歌まじりに彼は鍋に大量の鳥皮を入れ火にかけた。

「油なんて何に使うの」

「揚げ物」

「?」

「いやー昔よく行った定食屋で食った好物があって。それ再現したくてね」

「それをこの店の売りにするってこと?」

「そういうこと」

「うまくいくの?」

「うまくいくかどうか、うまいかどうかは食って確かめるのが料理人ってもんでは?」

「まあ、ね」

 私にはほかに選択肢などないのだ。彼の言う通りにするしかない。

「片栗粉ってある?」

「栗ならあるけど……」

「とろみをつける粉みたいなの」

「芋粉ならあるわね。芋から作った」

「ああ、それ。同じものだし」

「ああ、そう」

 よくわからないけれど、そういうことなのだろう。

「『さしすせそ』はそろってるな」

 調味料を漁った彼は顔を上げる。

「米はあるんでしょ」

「あるけど……誰も食べないわよ」

 それは白い粒の食べ物だ。茹でて柔らかくして食べるが、はっきり言って不味い。かの総教皇が好物としていたのもあって、敬虔な信者や宗教の行事には需要があるが、それだけだ。

「とりあえず和食の基礎的なものはそろってるわけだ。サンキューソーリー」

 よくわからない独り言をぶつぶつ言いつつ、彼は米を器に移す。

「まず米のとぎ方から教えます」

「とぐって……うちに砥石なんてないわよ」

「うん、米を洗うことをそう言うんだ。砥石でといだら米粉になっちまう」

 米の入った器に水を入れ、彼の手が回す。

「とりあえず水が真っ白になったら捨てる。これ自体にも栄養あるから植物の水やりにでも使うのも手だ。その昔は赤ん坊のミルク替わりにもなったらしい」

 白くなった水を捨て、新しい水を入れてかき回す。

 これを数回。

「米が透けて見えるようになったら充分。あとは水にひたしておく」

「まだ茹でないの?」

「水を吸わせるんだ」

「そう」

 よくわからないが、そういうことなのだろう。

「状況によるが水を吸わせるのは四五分前後。これは今後の経験次第で調節してね。その間

に――――おお。油たっぷり」

 彼は米を水に浸した器から、火にかけていた鍋に目を移す。

「これからは並行的に作業してね。時間のかかる調理がいくつも出てくるから。今までみたいに注文受けて、一つずつ終わらせてからじゃ時間がかかりすぎる」

「なるほどね」

 たとえばステーキなんて調味料を振って焼くだけだ。準備の時間はそれほど必要ない。しかし彼のやっていることはどれもすぐには終わらないもの。時間のかかるものは同時に進めないと対応できなくなるだろう。

「で、だ。米を寝かせてる間に揚げ物を始めます」

 彼は鍋から用済みになったらしい鳥の皮を取り除く。あとに残ったのは、鳥の皮から出てきた油。

「揚げ物……」

「熱した油で作るんだ。まあちょいと手間だけど」

 彼は皮の除かれた肉をまな板に並べた。

「まずは軽く肉の厚いところに切れ目を入れて、あとは全体に調味料をまぶしていく。……鳥の卵ある?」

「うちには置いてない。でも仕入れることはできるよ」

「じゃあ追々ね。卵は米にも合うんだこれが。パン粉は?」

「……パンくずのこと?」

「まあ、そんなとこ。余って硬くなったパンある?」

 それなら、と私は自分が寝起きしてる部屋の戸棚からもってくる。普段の食事はだいたい古くなったパンを安く買ってかじっていることが多いから。

「これを砕いたものがパン粉ってもんよ」

 包丁の柄で叩かれ、粉々になったそれ。

「で、肉に芋の粉を水で溶いたもの、パン粉の順でつけていき」

 彼は粉をまとって白くなった肉を鍋に静かに沈めた。

「揚げます」

 あたりにジュウウウといった心地よい音が響く。

「このとき雑に放り込むと油が飛んで火がついてえらいことになるから気を付けてね」

 彼はスプーンで肉に油かけたり、肉をひっくり返す。いい香りが鼻を満たしていくのを感じた。

 ああ、これは……きっと。

 おいしいんだろうな。

「まずこれがチキンカツ。これでも一つの料理」

 紙を敷いた皿の上に置かれる。

「とりあえず食べてみて」

 私はナイフとフォークを持って切り分ける。サクッという音と感触。否応なく上がる期待感。  

 はやりつつも恐る恐るといった感じで口に運ぶ。

 衝撃。

 その一言に尽きた。

 暴れ狂う熱が口の中を駆け、舌の上に肉の味が広がる。まるで新鮮な果実でも頬張るように、汁が満ちていく。

「おいしい?」

「ええ、とっても」

 このとき私は決意した。

 この子にすべてを任せようと。

「でさ、炊いた米にチキンカツのせて、そこに『あん』をかけたものが」

「あなたが食べたかったもの?」

「そゆこと」

 箸と呼ばれる二本の棒を器用に使って食べる彼に私は目を細めた。子供の食事を見守る母親とはこういう心境なのだろうか。

「うーん。本家には劣るけど、まあいいか」

 材料不足でまだ不完全と言うが、この『丼』という料理はそうとう水準の高いものだ。少なくとも、私たちが作るものとは。

「あなたは美味しいものが食べたい。そして、私はそれを売り出して店を立て直す」

「利害一致するでしょ?」

「そうね」

 私は自分の分の『のざわな丼(命名:彼)』をスプーンですくって食べる。

「のざわな丼という割に野沢菜を使っていないのがミソ……いや、いっそ付け合せに使うか……まあそれはいいとして、とりあえずこれ一本で、[のざわな]の名物にしようよ」

「今までのメニューは全部捨てるってこと?」

「やってもいいけど、のざわな丼作りながらそれ対応できる?」

「自信ないわね」

 ただでさえ今までより複雑な料理を主力にするのだ。そこに他の料理が絡むとなると……

「それもあるし、元から売れてないんだから仕入れも絞りたいんだよね。それなら手間や費用も節約できるし」

「そうね」

 彼の目線は、このときからすでに私とはかけ離れていた。私は、ただ黙って料理を作っていればいいと今まで思っていたし、それが料理人としての仕事というか限界だと思っていた。

 けれど彼は違う。

 もっと大きく広く、店そのものを見つめ直そうとしている。

「仕入れはのざわな丼ベースで進めて、それから」

 今後の展望を語っていく彼。そこには希望が満ちていた。それは昨日までここにはなかったものだ。

 私だけでは、『これから』なんて考えることはできなかっただろう。ただ、その場をどうやり過ごし、明日につなげていくかしか頭になかった。もっと先だとか、よりよい未来だとか、とても思い描けなかった。

 けど。

 この子となら。

 きっと。

 ホコリやヒビの入った店でも、そこにはたしかな輝きがあった。

 それから『また明日』と去っていく彼に手を振って、私は店を閉めた。あれからレシピの確認や今後の方針を話し込んで、すっかり外は暗くなっている。

 店の後片付けと家事を済ませて、今日も冷たい布団に入る。でもいつものような寒々しさはなかった。心に暖かなものがあるから。

 おどりっぱなしの心で、天井を見つめる。ここまで楽しさを感じたのはいつ以来だろうか。

 私も何かしよう。

 ただ漠然とそう決意した。

 まったくの無関係な彼がここまでしているのに、当の自分が何もしないわけにはいかない。自分はもちろん、夫もよしとしないだろう。

 さしあたって、この店を――――

「どうだこれ」

「えーと」

 はたして、彼は翌日も来てくれた。しかし一人ではなかった。一人の魔法使いの格好をした女の子を伴っていた。二人は店内と店外を行ったり来たりしている。その往復は店の中に入るのを最後に止まった。

「これをちょちょいと新築に作り変える感じで」

「難しいですね。単純に穴をふさぐだけなら、土魔法の応用でなんとかなりそうですけど。これならいっそ全部壊してから新しく作る方がはるかに楽です」

 どうやら店を壊すつもりらしい。

「それは」

「それはだめだ」

 彼が先に止めた。

「この店という『枠』はそのままで立て直す」

「となると私の魔法では難しいですね」

「やっぱ業者呼ぶかー」

「あ、あの。えっとね」

 私の声に二人はこちらを見る。

「もうお店の方は頼んであるから」

「それって知り合いの大工? 腕はいいの?」

「この近くの知らないところだけど、もうそろそろ見積もりに来ることになっていて。あ、でも前にこの街一番の大工だって聞いたような……そうでもないような」

 家を直すならどこがいいとか、そういうことには私は疎い。建築関係の知り合いはいないし、その筋に詳しい人との付き合いもない。でも自分の店だし、私もなにかしないと。

「ふーん」

 彼はそれ以上は何も言わず、

「予算はたっぷりあるの?」

「そこまでは……」

 今までの蓄えを使うことになるから、あんまり高いと仕入れすらままならなくなる。

「そうだわな」

 彼は何かを察したような顔をしてから、そばの女の子を私に示した。

「あ、こっちはマオ。俺の友達」

 お互いよろしく言ってから、私は店の前にある人影に気づいた。しきりに店の外側を見ているようだった。

 私はピンときた。

「来たみたい」

 はたしてその人影は私が頼んだ職人で、大工は二人で来た。父親と息子のペアだ。

「あー、うん」

 無精ひげにくたびれた格好の父親は店内をざっと見回す。その背後に折り目正しい息子が控えていた。

「これなら純銀貨五〇でいいな」

「わかりました」

 私は奥から銀貨の詰まった袋を取りに行こうとして――――

「まあまあ」

 彼に止められた。

「純銀貨五〇と言いますが、それ本当ですか?」

「ああ」

 父親はけだるそうに肯定する。

「別の業者からは三〇で出来るって言われたんですけど、おたくどういう根拠でそんな数字出したんですか?」

「……。あー……」

 彼に問われると、父親は面倒そうに天井を見上げた。

「棟梁」

 後ろで控えていた息子が父親のそばへ。

「あとはこっちでやるから」

「そうか。じゃあ帰るわ」

 異論はないらしく、そのまま父親は帰っていった。

「失礼しました。それではですね、これから調査して記録を取りまして、改めて見積もりと修繕案を提示させていただきますので、今日は店の中を見させていただくということで」

「じゃあそういうことで」

 彼は片手を上げてそれに応じた。

『ここの材質は……』

 メモ帳を片手に調べていく職人を尻目に、私は彼によって厨房に連れてかれた。

「いつの間に他の人に相談していたの?」

「あれは嘘だ」

 私が問うと、彼はばっさり言った。

「……?」

 不思議そうにしている私に、彼は声を抑えて、

「あんな適当な見方で正確な工賃が算出できるわけないじゃん」

「それは……言われてみれば」

「で、はったりかましたら案の定だ。明らかに盛って出してる」

「割り増しされているということですね」

 そばのマオちゃんがうなずいて言った。

「この手の適正価格ってのは、客側は経験がほとんどないからわかりづらいんだ。知らないということは、それだけ向こうの言いなりになりやすい。結果、業者側のぼったくりに客側はあっさり引っかかる。こっちだって金は無尽蔵にあるわけじゃないんだから、節約してしかるべきでしょう?」

「そうね」

 危なかった。

 そういうことなのだろう。

 危うく私は払わなくてもいいお金を払うところだった。けっして豊かでない蓄えを切り崩して頼むのだ。無駄金を使っていられる余裕はない。

「こういうときは相見積もりで業者同士を競わせるのがいい。平均をとって適正価格がわかるし、向こうも価格競争というチキンレースでどんどん値段を下げてくれる」

「なるほどー」

 感心するマオちゃんに私も同感だった。

「それはそうと、こっちはこっちで練習だ」

「練習?」

「今からのざわな丼一〇〇杯作って」

 えっ。

「今『えっ』って思った?」

「その……」

「これから大繁盛するとして、客の数にこっちが対応できなきゃ、なんの意味もないじゃん。厨房がパンクしたらせっかくの客を逃がす。料理人がパニくってしくじっても客を逃がす。だから今のうちに大量に正確に調理できる経験をつける」

「そう……そうよね」

 言われてみればその通りだ。たくさんお客さんが来れば、それだけ作らなければならない。レシピ片手に右往左往なんてやっていられない。

「とりあえず調理に集中してくれればいいから」

「でも食堂って仕事それだけじゃないのよ。注文取りや席の掃除、お勘定……」

 そう考えると嫌でも顔が曇る。今までよりはるかに難しい調理をこなしつつ、従来の作業もしなければ……

 とても一人ではやっていけない。

「だからマオを連れてきたんだぞ」

 彼はここまでの展開を読んでいたようだ。

「マオがウェイトレスとして場を回すから。当座はそれでいこう」

「はい!」

 楽しそうなマオちゃんに私は頭が下がる。

「マオにはマオでこれから基本的な接客を教えていくから。あ、これウェイトレスの衣装。奥で着替えてきてね」

「わかりました!」

 服を抱えてパタパタと奥に消えていく少女から、彼は私に視線を戻した。

「じゃ、まずは一杯目から行こうか。もう仕入れは頼んであるから、どんどん作って」

 店の外に駆け出す彼に目をやった私は、ため息まじりに手を動かす。来店客のない店で緩やかに死んでいたのが遠い昔に感じる。

 けれど。

 その充実に、頬が緩んでいるのもまた事実だ。

「席に案内したら、注文を取る。言い間違いと聞き間違い防止で注文を取るときは復唱する。これは料理を並べるときも一緒な。まあ、当座は一品だけだからそんな心配もないだろうけど、基礎はこう」

「わかりました」

 ウェイトレスバージョンのマオは目の保養になるなぁ、と思いつつ俺は接客マニュアル片手に指導していく。

 今更だが、この世界は料理がまずい。素材はこのさいしかたないが、調理技術ならいくらでもすぐに改善できる。そう考えた俺は、今にも潰れそうな店を探した。そこなら迷惑はかからないだろうし、こちらの言うことも割と聞いてくれそうだからだ。もし失敗しても、どうせ遅かれ早かれ潰れるんだから双方後腐れもなさそうだし。

 それでこの[のざわな]に目を付けたわけだ。周辺住民に聞き込みをすると数年前に夫婦で開いたはいいが、お世辞にも美味いとは言えず繁盛していなかったそうだ。ありがちな『夫婦で盛り上がって開いたはいいが現実はそう甘くなかった』パターンだな。

 その後旦那の方が死に、店は形だけは開いているが荒れ放題。そこまで美味くない店は陰気臭さまでプラスされて、誰も近寄らなくなったらしい。

 外から見たらやってるかどうかすらわからんし、店内をのぞくと廃墟みたいだし。これじゃ金払ってまで飯を食いたいと思わんだろうな。とりあえず注文して食ってみたら、まあ素材は悪くなかった。

 ここにしよう。

 そう思ったのは、状況的にそう判断しただけでなく、一人で店とともに朽ちていく女主人さんに思うところがあったのか……なかったのか。

「アータって、ああいうタイプの女の人にいっつも世話焼いてるけど、ひょっとして年上好き?」

 調理兼接客の練習台に呼んだミツルが俺の向かいの席に雑に座った。

「ちげえし」

「じゃあ人妻好きか」

「もっとヤバい認定すんな」

 お前の中で俺はどんな性癖してんだ。

「しかし一〇〇も作ってもアーシはそこまで食えねえぞ」

「ギャルならそれくらい食えるんじゃないのか」

「ギャル=大食いってわけじゃねえからな、言っとくけど」

 え、そうなの? 有名なギャルはフードファイターだったのでてっきり。

「まあ保険にこいつも連れてきたし大丈夫だろ」

 俺の隣でテーブルに突っ伏しているロミーネをギャルは見る。

「こんなチビッコがそんな食えるかよ」

「俺も最初はそう思ったんだがな」

「あーん?」

 わけわからんと顔で語るミツルの後ろに、大工がやってきた。

「すみません、調査終わりましたので私はこれで。結果報告は後日ということでよろしくお願いします」

「ああ、せっかくだから食べていきませんか」

 あの適当なおっさんと違い、こっちは真面目そうな青年だ。

「はぁ……よろしいので?」

「どうぞ」とマオに促された青年は座る。

「意見を募りたいところでしたので」

 モルモット……もといモニターは多い方がいい。

「それではお言葉に甘えて」

 ウェイトレスの手からそっと客の前に丼が置かれる。うむ、いい配膳だ。

「のざわな丼でございます」

 おそらく初めて見るであろうそれに、彼は驚いた。

「おお。これは、なんとも」

 ミツルはスプーンを持って慌てる男から俺に目を移し、

「カツ丼の親戚?」

「チキンカツ丼のあんかけ……的な」

「へー。そういえばコメ料理って見なかったな」

「みんな炊き方を知らんのだよ。ずっとそのまま茹でてただけ。そりゃまずい粥もどきしかできないし根付かないわ」

「そういうことか」

 ミツルは納得したように背もたれに寄りかかり上を見る。

「あとはタピオカも出せばカンペキだな」

 いらねえよそんなもん。

 俺は聞かなかったことにした。

 続いてミツルの分が運ばれてくる。いいスピードだ。崩れもなさそうだし精度もいい。

 経営者としてはさておき、ここの主人は料理人としては上等な部類だと思う。土台となる調理の素養、素材への目利き。環境のせいで才能が発揮できなかったというだけで、俺たちのいた時代であったならば活躍できたかもしれない。この人もまた、時代のニーズに能力がマッチしなかったというべきか。

「味の方はどうです」

「絶品、と言うほかないですね。ほかに言葉が見当たらない」

 大工の驚愕に満ちた感想に、俺は安堵した。この店の売りにはなりそうだ。

「値段としてはいかほどが適切になるでしょうか」

 あとは値段だな。

「だいたい、ここの相場だと、一食は合銀貨三枚が目安です。これくらいになると、その倍は払ってもいいかと」

「ふーむ」

 俺は人差し指で鼻の下をこする。今後の改善次第だが、その値段だと仕入れとそこまでの差額がない。あまり儲からない。たとえば、今までのただ焼けばいい、ただ切ればいいくらいのものならば、回転率は高いから薄利多売でもいいのだが……

「合銀貨一〇枚というのはどうでしょうか」

「ふーむ」

 今度は青年が悩む番だ。

「私はこの味を知っています。そのうえで、その値段が適切かと問われれば、妥当だと答えるでしょう。この料理にはそれくらいの価値があると判断できます。しかし」

「何も知らないやつが通常の三倍くらいの金を払って食ってみるかと言われると二の足を踏む、と」

「ええ」

 美味いと知っていれば大枚をはたこうとも思うが、得体の知れないものにとなると、ある程度の見積もりと度胸が必要だ。こんな潰れかけの店で、よくわからないものに多くの金を払えるか……俺でもスルーする。

「プロモーションが必要ってことか」

「プロ……?」

「ああ、お気になさらず。ご意見ありがとうございます。どうぞ」

 食事を再開する青年とマオがやってくるのは同時で、俺は渡された器をロミーネに回す。待ってましたとばかりにがっつく少女を尻目に、俺は今後の営業方針に思いをはせた。

「御免」

 奴が来たのはそんな時だった。

 店の入り口に目を向ければ、そこには年老いた男がいた。藤色を主調とした装束、白髪交じりの前髪は後ろに流され結われている。頑固と偏屈を表現しろと言われたらこうなりそうな、そんな見た目の面差し。

「なにか」

 主人は文字通り手が離せないので俺が応対する。

「……ここは飯屋と思ったが」

「ああ……」

 たしかに、店は開けていたし、閉店やら改装やらの張り紙もしていなかった。しかしまさかこんなときに限って客が来るとは思うまい。今までろくに来なかったのだから。

「今ちょっと新装開店の打ち合わせをしているところでして、営業はしていないんですよ」

「ほう」

 鋭い眼光が俺から奥で食っている連中に移る。

「ここは飯屋であると認めるわけだな」

「それは、そうですが」

「では、飯屋とはなんだ」

 いきなりなんだこいつ。

「飯屋とは、腹をすかした者に飯を与えて金を得るのが本道だ。飯屋に食わせるだけの食料があり、それに金を払う者があるならば、当然に成立する」

 要するに料金は出すから食わせろと。

「ですがまだ値付けもですね」

「それなら食ってから決めよう。私のつけた値に異があれば、その場で改めて決めるがよい」

 そこまでして食いたいのか。そんなに腹減ってるならよそ行けよ。

 思うところはあるが、モルモットは多いに越したことはない。どうせ注文あろうがなかろうが九〇杯以上は作るのだ。

「では、どうぞ」

 老人はふんと悠然と腰を下ろす。あわせて、外で待機していたらしい執事っぽい人も入ってきた。

「お手数をおかけします」

「ああ、いえ」

 こっちの人は礼儀正しい。

「む」

 偉そうな老人はミツルを見た。

「この料理には箸を使うのか」

「あ? 当たり前だろ。ひょっとして使えねえのか?」

 ギャルの言葉に、シワの刻まれた眉間がくわっとなる。

「このマスタル・ユザーヌを見くびるな。箸など先端以外汚さず食ってみせよう」

 誰もそこまでしろと言っていない。

「のざわな丼でございます」とマオが卓上に置く。あれ本当は俺の分。

「ではいただこう」

 器用に箸を持ち、チキンカツをつまんで一口。

 ぴくっと動作が止まるが、そのまま黙々と二口目――――

 三、四――――

「珍しいですね」

 俺の隣の執事が呟く。

「旦那様は高名な食の評論家です。一口食べればだいたいの講評を済ませるのですが」

「論ずるまでもない、的な」

「いえ。計りかねて食べ続けているのでは、と。こんなことは初めてです」

 結局、一言もなく完食。そして俺を見た。

「この料理を作ったのは誰だ」

「ここの主人ですが」

「主人を呼べぃ!」

 うるせえじいさんだ。

「あの、なにか……」

 ほら厨房にも聞こえて女主人が自分から来た。

「できましたよ」

 ついでにマオが俺の分を持ってやってきた。ああ、ようやく食える。

 俺が受け取るより速く、のざわな丼をさらっていく手があった。

 俺の……

「この肉はなんだ。いったいどうやって調理した」

「ええと、それは鳥の肉に味をつけたものを芋の粉をまぶして卵液に」

「芋の粉と卵だと!」

「はい。それからパンを砕いて作った粉をまとわせて油で」

「そうか。このサクサクとした食感は」

 新しいのざわな丼をもぐもぐしながら老人は納得する。俺の分……

「この鳥の肉を油にくぐらせたものもそうだが、このとろみだ、このとろみがにくい。ともすれば一本調子になりそうな料理の味に変化を与えている。同時にこのとろみが保温効果も生み、冷めにくくしていると見た。これは」

「それは芋の粉をですね……」

 主人が『あん』の作り方を話し、老人が驚きを語る。

「旦那様がここまで料理で興奮なさったのは初めてです」

 これには執事も驚きのようで、懐から取り出したハンカチで自らの側頭部の汗をぬぐっていた。

「元来、料理の美味し不味しとは素材が新鮮か、その土地の名産であるかの差異であった。しかしこの料理はそういった先天性とはかけ離れ、美味という領域を新しい次元へ昇華させている。土台となる米、主役たる鳥の肉の油料理、それを補助するとろみ。この三位一体の料理、見事というほかなし」

 どうやら満足したらしい。

「それでおいくらに」

 厨房に戻っていった主人の代わりに俺がお伺いを立てる。

「一枚払おう」

「一枚……」

 老人の脇に寄った執事が巾着のような袋を開いて差し出す。評論家はジャリジャリと音を立ててそこに手を入れた。

 一枚ってどの一枚だ。ひょっとして銅貨じゃないよな。いや、まあ元はタダみたいなもんだし、それでも構わんっちゃ構わんが……

 カタン。テーブルにはたして一枚の硬貨が置かれる。

「っ」

 一連の流れを見ていた大工が声を漏らす。思わず、びっくりといった調子だ。

 かくいう俺もビビった。

 純金貨。

 この世界の通貨で最上位で、その価値は合銀貨一〇〇〇枚に値する。

「気に入った。ちょくちょく寄らせてもらおう。して、新規改装とやらはいつ終わる」

「それを今、そこの方と話していたところで」

 すると老人のギロッとした目が青年を見た。

「あ。……あのですね、ただいま調査が終わったところでして、当店で費用を算出して提案させていただいて、了承をもらい次第仕入れと職人の確保をしてそれから着工ですので……数ヶ月……急いでも数週間は」

「遅い!」

 ピシャリと一喝された。まっとうなこと言ってるのに。哀れな。

「食とは人類が有史以来絶え間なく続けた営み。いわば人の英知の集大成。その歩みを阻害することは人類への冒涜と知れい。その進歩を貴様らのチンケな事情で遅延させるなど言語道断。街中の大工をかき集めて昼夜を問わずやれい」

 そんな無茶な。

「そんな無茶な」

 俺が思ったことを大工が言う。

「黙れ! 死ぬ気でやれば出来ぬ道理はない! 出来ぬと言うなら貴様らそのまま死んでしまえ! このユザーヌが縊り殺してくれる!」

「ひええ」

 もはや脅迫である。俺は知らん。知らんぞ……

「わかったらさっさとゆけい! 今夜から早速始めろ!」

 老人の罵声に背を押されるように、大工は出ていった。あーあ。

「それで、ほかにはないのか」

 ようやく俺に回ってきたのざわな丼は、物欲しそうに見ていたロミーネに譲りつつ、

「当面はこののざわな丼一本で行く予定ですよ」

「つまり将来的には増やしていくわけだな」

「ええ。ただ新しい料理を作るにも何かと先立つ物が必要でしてね。仕入れルートの開拓やら新しい調理器具の購入やら……」

 こっちまで急かされたらたまったものではない。もっともらしい理屈を出させてもらう。

「ふっ」

 すると老人は軽く笑った。

「わははは」

 と思ったら大きく笑った。

「このユザーヌにつまらぬ駆け引きはよせ」

「おい」という掛け声で、執事が俺の前にさきほど使った巾着を置く。じゃらじゃらと重そうな音がした。結構入ってるのは明らかで、さきほど無造作に一枚取り出して使ったことから、おそらくその中身は全部……

「好きなだけ使うといい。ただし、最初は私に必ず食わせろ」

「そりゃもう」

 ギャーギャー手前勝手に騒ぐだけの腐れクレーマーならいざしらず、こんだけ金払いのいい客ならこっちもいい顔してやる。

「楽しみにしている」

 立ち上がり言い残し、老人は店の出入口へ向かう。嵐のようなじいさんだった。執事もこちらに一礼し、後に続いた。

「失礼」

「あ、いえ……」

 そこで誰かと鉢合わせた。その誰かは入れ替わりにこっちに来た。

「だいぶ老けたけど、元気そうだな」

「知り合い?」

 元・勇者の運び屋のおっさんは椅子に腰かけ、

「昔の身内ってところかな。今はただの他人さ」

「ふーん」

 訳アリと察したが、あまり深堀りするのも野暮だろう。仕事の話を済ませよう。

「仕入れたものは全部良品でした。さすがです」

「だてに運び屋であちこち回ってないからな。本物の素材の仕入れなら任せてくれ。ちょうど大口の教団があのざまで暇だったしな」

 これには助かった。さすがに俺も仕入れルートの開拓までやってる余裕はない。餅は餅屋だ。各地に根付いているであろう各種食材を熟知している人間に一任できてよかった。

「どれどれ」

 おっさんはオールバックを揺らして運ばれてきたのざわな丼に手をつけていく。これひょっとして俺は食えないパターンじゃなかろうか。

「まあまあいける」

「あっそ」

 二杯目をもぐもぐしているミツルの感想は心底どうでもいい。

「うめえなこれ」

「そりゃよかった」

「多少高くても売れるんじゃないかこれなら」

「俺もそう思うんですけどね。あんまり高くても客来ないんじゃないかって。とりあえず合銀貨一〇枚でいいかなって」

「さっきのじいさんはなんて言ってた?」

「べた褒めで純金貨一枚置いていきましたよ」

 おっさんは一瞬何かを考えたように目を伏せた。

「なら合銀貨一五枚でもいける」

「ほんとぉ?」

「だめなら値段は下げればいい。この手の価格設定は多少高めで下方修正するくらいがいいんだ。上げるより下げる方がウケがいいからな」

「じゃあそうしよう」

 幸い、今さっき、運転資金はたっぷりいただいた。ある程度試行錯誤する余裕はある。

「ようご主人。あんた俺が昔惚れた女に似てるな」

「あらお上手」

 軽快な語り口で請求書を主人に渡したおっさんは、厨房に所狭しと並んだのざわな丼にぎょっとした。

「これ何個作ってんの」

「一〇〇個」

「食いきれねえだろ。こっちに来てる同業者に配ってやるよ。いい宣伝になるぞ」

「それもありだな」

 俺はうなずく。

 いや、いっそ……

「本当にタダでええんか?」

「ええよ」

 俺の申し出に嬉々として続々と店に浮浪者が入ってくる。近所で暇そうにしてたのがあっさり釣れたのだ。

「冒険家協同組合にいる仲間も呼んでええか?」

「あーギルド的なあれか」

「んだんだ。あそこ雨風しのげるし、水も飲み放題なんだ。だからだいたいみんなあそこの中か外におる」

「ほーん」

 めちゃくちゃどうでもいい情報だと、このときの俺は思っていた。

「みんなきっと喜ぶで。礼と言っちゃなんだが、人手が欲しかったら俺たちを頼りな」

 と言っても、できることなんて大したことないが、と笑う浮浪者は、仲間を呼びにいったん出ていった。

「いいのか?」

 三杯目を平らげたミツルが寄ってきた。なんやかんやで結構食うじゃねえか。

「いいよ。これもプロモーションの一手だ」

「口コミでバズらせ的な?」

「そういうこと」

 まず認知度を向上させよう。そのためには撒き餌が必要だ。

 取り分が減ったことを察したのか、そこはかとなくびっくりしているロミーネを尻目に、俺は浮浪者たちへ飯をふるまった。その盛況につられて、近隣住民が野次馬に来たので、そっちにも配った。味は軒並み好評であったが、はてさてどうなることやら。

 その夜、早速リフォーム工事は始まり、驚異的な人数とスピードで[のざわな]は生まれ変わることとなる。見た目をいじる程度なだけだったのもあって、わずか数日でそれは終わった。

 やべえなこりゃ。

 昨晩リフォームが終わったと現場作業員に聞かされ、夜が明けて集まった俺とマオと主人の間には重い空気が流れていた。その日は店の状態確認やら支払いやらを済ませた後、翌日から営業再開する告知でもして心機一転といきたかったが…………そうもいかんらしい。

 リフォームは問題ない。素人目・傍目から見て新築同様だ。わずか数日でようやった。問題はそこではない。

 客だ。

 開店前に数人が来るくらいならいい。それくらいなら融通をきかせて提供するくらいは考えていた。

問題はそういうことではない。

「今、外にどれくらいいるか数えましょうか」

「やめろ。気が滅入めいる」

 マオの提案を俺は却下した。

 店の外にうねる大きな蛇がいる。

 これは人の群れ。

 全部うちの客。

「やっぱり原因はこれかしら」

 主人はテーブルにある一枚の記事を見る。今朝、店を囲む長蛇の列にたまげた俺が調査した成果だ。

『イガウコに食の秘宝を見たり!』

 そんな見出しが紙面にでかでかと載り、この前のじいさんの賛辞がこれでもかと山盛りに書かれている。

『従来、料理の美味し不味しは新鮮であるとか名産であるとか、素材そのものが基準であった。しかしイガウコの[のざわな]の料理は素材とは別の要素に立脚した、まったく新しい地平に立っている。原始的価値であった食が文化的領域へ到達しているのだ。これは一種の革命であり奇跡の産物といっても過言ではない』

 後で知った話では――執事もそれっぽいことは言っていたが――マスタル・ユザーヌなる老人はたいそうな富豪で、趣味で各地のグルメを堪能してはそれをコラムにして寄稿しているらしい。一切の世辞や忖度のない辛口の評論は読者の絶大な信頼を獲得しており、そんな人間が最大の賞賛を掲載すれば、それはいったいどんな名店か美味かと殺到するのは自明であった。

「あの、正直に開店は明日からと説明すれば」

「それで全員納得して出直すかね。最悪暴徒になるぞ」

 そう、我々はリニューアルオープン早々にとんでもない数の客に店を囲まれているのである。

 これから店を開き、ノンストップでさばいたとして帰れるのはいつになるのか。

 こうなったら……

「仕入れの方はピストン輸送でガンガン持ってくるよう俺から言っとくから。じゃ、頑張ってね☆」

 がしっ。

 逃げようとした俺の肩を女主人の細腕が掴んで離さない。

 ◆◆◆

「しかし旦那様、よろしかったのですか」

 出版社に原稿を提出した折り、執事は馬車の中で切り出した。

「[のざわな]の主人に出自を隠したまま客として付き合うというのは」

「よい」

 ユザーヌはさらりと流した。

「あの娘がつまらぬ店でつまらぬものを出していたならば、引きずってでも連れ帰るつもりだったが、あれを出されてわな。まったく一杯食わされたわ」

 食したのは一杯どころではなかったが。執事は胸中で呟く。

「『勇者になる』とうそぶいて出ていった愚息は消息不明。その妻の方をたどれば病死。二人の間に娘がいるとわかって来てみれば、至高の美味に巡り会った。なんとも皮肉なものよ。各地で食べ歩くより身内に会いに行く方が美食の近道であったとは」

「おっしゃる通りでございます」

 うまいものを求めて右往左往するより、孫娘を探し当てた方がうまいものにありつけたとは。

「私の財産をくれてやって無為に肥え太らせるより、客として通った方が双方によい」

「それではこれからも旦那様とあの主人の関係は他言無用ということで」

「うむ」

「かしこまりました」

 あくまで美食目的で。かの富豪はそう主張したいのだ。しかし長年つかえた彼にはわかる。本当は孫の顔や活躍を見ることがなによりの楽しみなのだと。そこを指摘すればたちまち激昂することもまた、長年つかえた彼にはわかっていたので黙っていた。

「しょせん人の生など、どれだけの娯楽・道楽をなせたかよ。とすれば、心躍ることに注力すればよい」

 わははは、と豪放磊落ごうほうらいらくに笑う主に、従者も頬を崩した。

(第3章)

 ええ。私が彼に出会ったのは、私が新任受付嬢として着任したばかりの頃でした。研修も終えて、いよいよ独り立ちという頃でしたね。基本的な業務はどうにかこなせるといった程度で、ほかはからっきしでした。そのとき彼に出会えたのは、まったく運がいいのか悪いのか……

 そうです、彼も駆け出しの冒険家でした。そもそも、まだ冒険家登録もしていませんでしたね。冒険家以前の活動については関知していませんが、公的にはまだ冒険家でもない一般人であった、ということになります。

 そうですね、あの頃は大変でしたけど、今思うと、新鮮で強烈で――――

 きっと、私は楽しかったんでしょうね。

【七英雄伝 剣の章 ある受付嬢の証言】

「おはようございます!」

 出勤し、制服に着替えた私は、持ち場に向かう途中で会った備品係のおじさんに挨拶します。

「ああ、おはよう」

「どうかされたんですか?」

 彼は職員用廊下の掲示板に貼られた表を見上げていました。

「ギルドの遺品整理の件で、ちょっとね」

「遺品整理、ですか」

 その表には、活動停止状態のギルドの名前が羅列されていました。

「君がこっちに来る前、イガウコの冒険家ギルドのほとんどが壊滅状態になる事件があってね。君も知ってはいるだろう? 例の襲撃事件だよ。そりゃ命のやり取りをする冒険家だ、ギルドが機能しなくなる状況というのはままある。ただ、そのギルドが遺したものをどうするか、これが問題だ」

「事務局で処分できないんですか?」

「たとえばギルドメンバー全員が天涯孤独であるとわかっているなら、事務局で引き上げることもできる。しかし実際は血縁者や知人友人なんてものがいるのが当たり前だろう? その人達に話を通さずこちらで好きに使ってしまったら、当然非難の対象になる。『相続するつもりだった』だの、『生前譲り受ける約束をしていた』だの言われたら、こっちも強くは出られない」

「なるほど」

「すると全滅したギルドであっても名前や財産はそのまま維持しないといけなくなる。かといってそのまま宙ぶらりんにされると、今度はこっちの負担が大きくなる」

「維持管理や残数確認もしないといけないですもんね」

 備品係のおじさんは疲れた顔でうなずきました。

「そういうことなんだよ。このあと支部長にも相談するけど、おそらくは現状維持って形になるだろうね」

「ふーむ」

 私が顎に手をやっていると、

「おはよう」

 噂をすればなんとやら、支部長がやってきました。相変わらずの真っ白な服で、短い髪の好青年といった感じです。

「おはようございます」

「たしか今日から、補助なしで勤務だったかな」

「はい。がんばります!」

「結構。その調子で」

 軽く手を上げて応じる支部長に一礼した私は、持ち場である窓口に向かいました。背後でお二人が相談している声がだんだんと遠くなります。

 元気よくやる気満々の反応をしましたが、その言葉とは裏腹に私は冷めていました。安定性からこの仕事を選んだというだけで、仕事に対する熱意であるとか、やりがいというものは感じていませんでした。現代っ子っていうやつですかね。とりあえず倒産の心配はありませんし、よっぽどのことがなければクビになることはない。私が受付嬢を選んだのは、それくらいの理由でした。

 ただ規則を守り、決められたことをこなして食うに困らない給料を稼ぐ。昇進なんて面倒が増えるだけのことには興味がない。

 そういう感覚でしたね。

「ファイト」

 自分に与えられた席につくと、隣に座る一個上の先輩からエールをもらいました。私は両手をぐっとあげて応えます。受付嬢にもいろいろありますが、新人やルーキーといった年数の者は、だいたい冒険家との窓口をやるのです。それからは奥に引っ込んで事務や雑務ですね。まれに中央の冒険家協同組合事務局に栄転する方もいますが、だいたいは同じ街の事務局でずっと働きます。転勤の心配がないのはいいことだと、私は前向きにとらえていました。

「それじゃ開きます」

 警備員の声に、あたりは一瞬ビリッとした空気になりました。ここからは冒険家がやってきて、彼らの要求に正確かつ迅速に対処しなければなりません。

「最初は時間がかかってもいいから、失敗のないように」

「はい」

かす人なんて――――急かす人に限って――――失敗しても責任なんてもたないんだから。慌ててやって失敗してこっちの責任にされるよりはよっぽどいいわよ」

「ですね」

 先輩の経験談込みのアドバイスに苦笑します。

 数日の研修で、冒険家のだいたいの性質は掴んだつもりでした。

 粗野で乱暴で、腕っぷしの強さだけを競う生き物。

 それが冒険家というものだ、と。

 ワーワー声を荒げて、子供みたいにわがままを言ってこちらを困らせる。はっきりいって関わりたくないタイプだ、と。自分もさっさと冒険家のおもりから卒業して裏方に回りたい。着任早々から、そんなことを思っていました。

 警備員が出入り口のじょうかんぬきを外します。

 こうして私、冒険家協同組合事務局イガウコ支部、新任受付嬢の物語が始まったのです。

 最初に入ってくるのは浮浪者の一団です。彼らは開局から閉局まで、この局内で過ごします。雨風がしのげて、水も飲み放題ということで、生活の術がない彼らにとっては生命線ということらしいです。彼らは警備員に追い出される閉局時間まで、ずっとベンチか床に寝転がっています。たまに冒険家がお情けでチップを与えると血眼になって奪い合うそうです。

「ああいうの追い出せないんですか?」

「追い出す口実がないのよね」

 先輩は苦笑した。

「なにか具体的な迷惑をかけているわけでもないし、店じまいには出ていくし」

「でも絶対うちを利用する気ないですよね」

「もしかしたら、冒険家としてがんばるようになるかもしれないでしょ?」

 このときの私には、釈然としないものがありましたが、それが社会というか大人の対応なのだろう、と納得することにしました。

 浮浪者に遅れてやってくるのが、ここでの主役、冒険家です。ルーキー、ベテラン、ロートルと様々な年齢層と装備でぞろぞろ入ってくるのです。

「それじゃ、今日もお互いがんばりましょ」

「はい」

「何かわからないことがあったら聞きなさい。でも、なるべく自力で解決するようにね」というお言葉を最後に、先輩は自身の窓口対応に移りました。そこでふと、先輩の手元にある写真立てが目に入ります。その写真には、先輩ともう一人が写っていました。

 白い鎧に身を包んだ男の人。

 アルティ・マークス・ルーグ。

 ほとんどおとぎ話のような人物で、あらゆる英雄譚の主人公になっている方です。ここイガウコでも、数ヶ月前の襲撃事件を見事解決したようです。写真は、そのときに撮ったものでしょう。ルーグ公の方は兜でどんな顔をしているかは読み取れませんが、先輩の方は緊張と紅潮で引きつっているのがよくわかります。彼女は事件当時にルーグ公に助けられたそうで、それ以来かの英雄にお熱のようです。

 もっとも、先輩はその後、猛アタックの末に支部長とゴールインしました。結局憧れと実際の恋愛は別物というか、そういう割り切りができるのが大人ってことなんでしょうかね。

「あのー」

 私の方にも人がやってきました。受付嬢デビュー初の相手です。

「ここで冒険家の登録? ができるみたいなんですが」

「ああ、それなら」

 私は手元の引き出しから紙と羽ペンを取り出し渡します。

「こちらの『冒険家登録申請書』にですね……」

「ふむふむ」

 彼は言われた通りに書こうとして、ピタリと止まった。そんな手間取るような箇所があったろうか。

「この『名前欄』なんですがね」

「ええ。お名前を」

「ここで決めていいです?」

「なるほど。大丈夫ですよ」

 こういうケースはたまにあるんです。偽名や通称を登録するパターンですね。なにぶん冒険家稼業なんてやる人種は、だいたい後ろ暗いというか、すねに傷のある人が多いんです。そうでなければ、騎士や勇者をやりますからね、だいたい。もっとも、このときすでに教団は崩壊していたようなので、めざとい方は勇者制度は将来性がないと判断し、冒険家に乗り換えるケースが多かったと聞きます。

「ご本人だとこちらで確認できれば結構です」

「じゃあ、あなたがわかればいいんですね」

「ええ」

 これも受付嬢の難儀なところです。たとえば裁判や検死のとき、身内の人間がいない冒険家である場合、担当受付嬢が駆り出されることがあります。ここでの業務の範疇ならまだしも、そんなことまでやらされるのは不服でした。

 ――――そうか、この人が私の初めての担当になるんだ。

 私はここで初めて気づきました。

 彼は少し悩んでから、名前欄を含めた書類の必須事項を字で埋め、私に提出しました。

 冒険家名はヴァルサール・フォン・ヒルデブラント…………

 私は書類を裏返し、彼の目をじっと見ました。

「念のため聞きますけど、この登録名、覚えられますか?」

「ヴァルサール……フォー……ヒルナンデス?」

「…………」

「…………」

「ヴァルサールだけにしません? お互いのために」

「そうします」

 そう、彼です。後に初の冒険家ユニオンを立ち上げた彼です。このときは右も左もわからないルーキーだと思っていましたけどね。

「ええと、それでは〈ヴァルサール〉で登録完了いたしました」

「ども」

「冒険家協同組合を使われるのは初めてということでよろしいですか」

 うなずく彼に、私はここの使い方を教えました。

「まず、冒険家の大半はこちらで仕事を受注します。大きく分けてクエスト制とスカウト制の二つです」

「クエストとスカウトですか」

 すっ、と私は冒険家が集まっている巨大掲示板を指します。

「あちらの掲示板に貼られている依頼書から受注するのがクエスト制です。どなたでも構わないから、条件だけ指定するといった方法です。冒険家とのつながりや知識がない方が事務局を通してやりますね。ほとんどの冒険家はクエスト制で身の丈に合った依頼を選ぶ、といった方法が主です」

「スカウト制というのは」

「特定の冒険家あるいはギルドを指名する依頼方法です。信頼性が高かったり、特殊技能を持っていたりすると直接依頼されることが多いですね。こちらはその担当の受付嬢が冒険家に伝えて受注するかどうか打診します」

「ほうほう。つまり依頼者からすれば、とりあえず誰でもいいからできそうなのを募集するのがクエスト制、やってほしい冒険家やギルドに直接お願いするのがスカウト制ってことですかね」

「その通りでございます」

 一回で理解してもらえて助かりました。この制度を理解させるために何度も説明しなければいけないケースもままあるのです。

「スカウト制って、組合通す必要あります? これなら直接頼んでも一緒では」

「そうなると私的な契約ということになりますね。たしかに組合への手数料分は浮きますけど、支払い拒否や契約不履行といった場合も当事者間で解決していただくことになります。また、冒険家が現在どういった活動をしているかを把握しているのは組合だけですので、結局冒険家へ直接の依頼をするコストとリスクを考えると、こちらを通した方が安上がりだと思います」

「他の依頼で今どこで何やってるかわからないってわけか。現在進行形で状況がわかる間柄なら、そもそも契約上のトラブルなんて起こらんだろうし」

 納得したようにうなずく彼は、

「ところで冒険家ギルドっていうのは」

「それについては『冒険家ランク』と合わせて説明しますね」

 私はちょうど、係が届けに来たエンブレムを彼に渡します。黒いデザインの円形のバッチであり、黒・白・黄・赤・青・紫の六つの色の星が円の中に描かれ六芒星を形成しています。

「まず、登録された冒険家は黒のランクとなります」

「ひょっとして、一番上のランクは紫だったりしません?」

 彼は受け取ったバッジを手の中で転がしていました。

「ご存知だったのですか?」

「いや。元ネタの方をね」

「? ええと、その通りです」

「んで、黒だとギルドは作れないみたいな?」

「はい。そちらもご存知で?」

「今のは勘と経験」

「なるほど」

 何がなるほどなのか、私にもわかりませんでしたが、とりあえず納得しました。

「黒の冒険家ランクは、あくまで名前を冒険家名簿に登録したという証明です。クエストやスカウトの受注により、冒険家としての活動を認められると白に昇格します。そこから更に一定以上の成果が認められると黄色以上へ。ギルドの設立申請はそれからとなります」

「なるほどわかった」

 彼はうなずいて、

「そういう諸々が書かれたルールブックとかありません?」

「少々お待ちください」と私は引き出しを調べ、目的のものがなかったので備品係のおじさんのところへ行きます。

「え? 就業規則?」

 備品係のおじさんは困惑顔でした。

「ありますよね?」

「そりゃ、あるとは思うけど……」

 おじさんと一緒に入った倉庫を見回します。

「なにしろ誰も使わないからね」

 建前としては、冒険家は協同組合のルールを熟知・遵守していなければなりません。そのため、冒険家は冒険家協同組合が定めた規則や手続きが記された書類を本来は持っているはずなのです。当然、事務局としても全員が必携するように、製本して配布することが規定されています。

「多分、あのホコリかぶってる箱に入ってると思うけど」

 おじさんが指し示した箱に私は恐る恐る手をかけます。

「息は止めた方がいいよ。喉に入るから」

 私はうなずいて、箱のふたを外しました。するととんでもない量のホコリが立ち上り、さながら煙です。素早く私たちは離れます。

「製作した当時は物珍しさもあって結構さばけたらしいんだけどね」

 おじさんはゲホゲホと手で顔の前をあおいでいます。

 現実問題、規則における判定や指導は受付嬢に一任されており、冒険家は一切目を通していないというのが常です。冒険家は文字通り、冒険にしか興味はないですし、規則を理解できるような教養がある方も少ないのです。

「僕も現物を触るのは初めてかな」

 ホコリの霧が晴れ、箱の中をのぞき込んだおじさんは本を取り出し、修復と洗浄の魔法をかけてから私に渡しました。

「ではもらっていきますね」

「はいよ」

 おじさんに一礼しつつ、私は受付に戻りました。

「おまたせしました」

「どもども」

 就業規則を受け取った彼はパラリと中を開く。

「内容はそちらもわかってますよね?」

「冒険家の活動に関する一般的なことなら」

 さすがにこんな分厚いものを丸々一冊暗記するのは無理でした。製作者ももう現場にはいないでしょうし、事務局内でも完全に熟知している者はいないでしょう。

「まあ、そんなもんですよね」

 彼はそう言い、本を懐にしまいます。

「このままクエストを受注しますか? でしたら昇格となりますが」

 黒の冒険家には大きく分けて二パターンあります。記念や体裁で冒険家登録する方、すぐに依頼を受けて白へランクアップする方です。 

「少し目を通して、また明日来ますよ」

 彼はどちらでもなく、しまった本を軽く叩いて去っていきました。

「お待ちしております」

 彼の後ろ姿を見送った私に先輩が近寄り、

「初めてのお客どうだった?」

「登録だけして帰られましたよ」

「ああ、『記念組』ね」

「それとは違う気がするんですよね」

「どう違うの?」

「うまく言えないんですけど」

 私が答えに窮していると他の受付嬢から「ヘルプお願いしまーす」の声。見ると、向こうで冒険家の長蛇の列が。クエスト制では担当というものはあまり関係ないため、人数が多く手続きが大変になるとこうして応援要請があります。受付嬢の主な業務の一つです。

 結局、その後は先輩方の手伝いや助言を受けるだけで本日の業務は終わりました。

「お先に失礼します」

「お疲れ様。今日は大変だった?」

「それがですね」

 帰る際、支部長に挨拶したとき、私は初担当の冒険家の話をしました。

「ふむ」

 支部長は額を触って考える仕草。

「たしかに記念登録や、冒険家という肩書き目当てではなさそうだ」

「どう思います?」

「少し話は変わるかもしれないけど、一番厄介な客ってどんな人だと思う?」

「それは……いわゆる無法者……ルールを無視して要求するような厄介なお客様でしょうか」

「逆だよ」

 支部長の言葉に今度は私が考える仕草をしました。

「ルール破りの客ならこちらに正当性がある。合法的に粛々と駆除すればいい。本当に厄介なのはルールを熟知し、建前としては正当な要求する人だよ。常識的に考えれば無茶苦茶でも、規則がそれを肯定あるいは禁止していない以上、その要求には正当性が宿る。おかしいとは思いつつも、むざむざその手伝いをしないといけない」

「なるほど」

 思えば、冒険家とはそういうこととは無縁の生き物でした。事務局や受付嬢から言われたことに従い、クエストやスカウトをこなします。それに違反すれば違約金や資格停止、最悪冒険家登録抹消まであります。規則違反はもちろん、その規則の隙をつくようなことはまずしません。

「こっちでも就業規則には改めて目を通しておくから、何かあれば私に報告を」

「支部長に直接ですか?」

 これは新人の私でも異例だとわかりました。受付嬢の案件の大多数は受付嬢間で解決するのが通例です。それでも解決しない案件でようやく上の管理職に話が上げられます。

「これは勘なんだけどね。ほかの受付嬢でも対処できないような状況になりそうなんだ。仮に解決できるとしても、その間はそれにつきっきりで、窓口業務がとどこおりそうだ」

「なるほど」

 言うまでもなく、受付嬢の仕事は彼の相手だけではありません。そちらに受付嬢総掛かりとなっては、ほかの冒険家の対応に支障が出るのは当たり前です。

「それに管理職として一番怖いことは、こちらのあずかり知らないところで重大な問題に発展することだからね。現場の判断も尊重するけど、手遅れにならない程度に報告はするように」

「わかりました」

 私の返事にうなずいて、支部長は壁に貼られた表を見ました。

「まずは一つだね」

 その表の下には受付嬢の名前があり、そこから伸びるように担当冒険家の数が★で表示され縦に並べられていました。今日が初仕事の私のところには、★が一つあります。

「地方と中央でバラツキはあるけど、イガウコ支部なら現役冒険家を一〇人前後担当して一人前、二〇人までいけばどこででもやっていける一流受付嬢だ」

 ここで改めて私は先輩のすごさを感じました。あの人の★は三五、噂では中央の支部から転属の打診があったとか。

「君の教育係は昨年の最優秀新人賞と年間MVPの二冠だから参考にはしてもあまり比較はしないように」

 支部長の言葉に安堵しました。先輩を見習えと言われてもできるものではありません。

「ただ『指標』というものはあるからね」

「ああ、ノルマですね」

「『指標』ね。あくまで目標であって、達成することが義務や目的ではないからね」

 支部長の妙なこだわりは、組織としてのしがらみのようでした。つまり、建前としては『達成しなくてもよい努力目標』ということですが、実際はその『指標』に到達できない場合、後で詰め寄られたり、皆の前でつるし上げられたりするそうです。受付嬢の場合は各支部の例年の傾向と実績から担当冒険家の『指標』が割り当てられます。これが達成できないとなると、事務局前での冒険家登録の声かけや、近所の家を回って名前だけでも登録を促すといった外回りを課せられます。これが義務的なノルマと何が違うのか、私にはわかりません。

「それでは、そういうことで。また明日」

「はい。ありがとうございました」

 着替えを済ませ、更衣室から廊下へ出ると、職員用通用口で先輩が待っていました。

「初勤務と初担当を祝って、記念におごってあげる」

 その誘いを断る理由はありませんでした。ありがたいことです。

「[のざわな]でいい?」

「うわーいいですね」

 [のざわな]をご存知でしょうか。今でもイガウコでは根強い人気のある定食屋さんですが、評判になったのはこの頃なんです。それまでは夫を亡くされて、ご主人が一人で切り盛りすることになるもうまくいかず、閉店するのは秒読みといった有様でした。それがある日突然料理が抜群に美味しくなり、今ではイガウコのグルメを牽引する名店にまで成長しました。

「いらっしゃいませ」

 入店すると、エプロン姿の女の子が迎えてくれました。繁盛したためか、ウェイトレスを雇ったようです。

「二人、空いてる?」

「はい、どうぞこちらへ」

 そう促されて席につき、メニューを渡されます。

「しかし変わるもんですね」

 私は周りを見ました。少し前までは閑古鳥が鳴いていて、店も女主人もやつれていました。そのままどちらも朽ちていくのでは、と皆で心配していたものです。それがこの通り、旦那さんを亡くされる前より繁盛していて、その稼ぎによるものか、店内も新築同様になっています。

「なんでもコンサルタントがついたらしいよ」

「コンサル……ですか?」

「うーん。私もよく知らないんだけど、店を立て直す人、みたいな?」

「なるほど」

 たしかにご主人が立ち直ったとしても、一人の力ではここまでにならないでしょう。それなら夫婦で経営している時点でもっと繁盛しているはず、ということになります。

「ご注文お決まりでしょうか」

 あのウェイトレスさんがお伺いにきました。とは言うものの、このときの[のざわな]のメニューは一品しかなかったのです。

「そしたらのざわな丼二つ」

 先輩の声に女の子は頷き、復唱して下がりました。

「ここの名物なんだって」

「それは楽しみです」

 [のざわな]は心機一転してメニューも一新したようで、今まで見たことも聞いたこともない食べ物の名しかありませんでした。

「あの子ってご主人の親戚かな」

「そんな話は聞いたことないですね」

 私は奥の厨房にいる女主人を見ました。長い髪を頭にまいた布でまとめて、調理に集中しています。その間にウェイトレスは料理の配膳や片付け、座席の用意や誘導まで完璧にこなしていました。経験どうこうと言うより、そもそもの頭の回転が良いんだと思います。

「バイトは募集してなかったわよね」

「そんな余裕なかったと思いますよ」

「よねー」

 不思議そうな顔をしている先輩に私も同感でした。夫婦の間に娘がいると聞いたこともありませんし……すると、よそから来たということになりますが、いったいどういった経緯で……

「お待たせいたしました」

 下世話なことを話していたら、当人が料理をテーブルに並べてくれました。

「のざわな丼がお二つ、ご注文は以上でよろしかったでしょうか」

 先輩が首を縦に振ると、彼女は卓上に請求書を置いて下がりました。

「変わった料理ですね」

 私の興味は、すでに運ばれてきた料理に移っていました。メニューに書かれた説明書きいわく、どんぶりと呼ばれる大きなボウル型の器。そこに盛られた食べ物は私になじみのないものでした。

「米がベースなんだよね」

 先輩は自分の分を取り、スプーンで軽く中をすくいました。たしかに白い粒が大量にあります。

「米って苦手なんですよね。なんか粉っぽくてべしゃべしゃして……食べた気がしないというか」

 米という食材そのものは私も知っていました。しかし、私を含めて好きな人はいませんでした。かの総教皇が好んで食したそうですが、このときの私には理解できませんでした。

「ここの米は違うのよ。まあ食べてみて」

 笑顔でそう言われ、私は恐る恐るスプーンを取り、そして――――

 驚いて口をおさえました。

「おいしい……」

 不意に、心の底からもれた声でした。

 米もそうですが、なにより米を飾るように上にのっているものが美味でした。小麦色のサクサクした肉に、スライム状のものがかけられていて、それらが米と合わさるとなんとも……

「チキンカツにあんかけだって」

「…………?」

 メニュー片手に説明する先輩に私は首をかしげました。どちらも知らないものです。

「言われてもわかんないよね」

「まったくもって」

 すべてが未知でした。こんな米もチキンカツもあんかけも、食べるのはもちろん、ここで初めて見聞きしたものです。

「ご主人、どこでこんな料理を」

「何から何まで不思議よね」

 私たちは疑問を口にしつつも、手は止めませんでした。あまりの美味に、手が止まらなかったのです。

「おいしかった」

「ありがとうございます」

 会計に来たウェイトレスに、先輩はお金と請求書を渡しました。

「え」

 その金額に私はあっけにとられました。

 純銀貨三枚。

 ご存知の通り、純銀貨とは純度が極めて高い銀貨であり、混ざりものの多い合銀貨とは区別されます。貨幣価値としては純銀貨の価値は合銀貨の十倍です。通常、私たちのような庶民が一食に使うのは合銀貨三枚が限度です。

「ちょうどいただきました」

 ウェイトレスがにこやかに領収書のみを渡します。つまり、お釣りの出るような払い過ぎではなく、あの料理二つできっちり純銀貨三枚分ということです。ということは、半分の一人分として、今の食事が普段の五食分ということです。これはどう考えても破格です。

「でもおいしかったでしょ?」

 店を出て帰り道を歩く先輩はあっけらかんと言いました。

「それは……そうですが。いいんですか、おごりで」

 あの料理には、たしかにそれだけの価値があったと私も思いました。今まで食べたものの中でも最もと言えるかもしれません。

「いいのよ。結局お金稼いでも、使い道がないのよ」

 先輩の言葉に、私は納得した。さきほど支部長も言っていたが、先輩はここの支部のエースだ。担当する冒険家も多い。それはつまり、もらえる給金も多いが、作業量もそれ相応だ。

「優秀な人間はより多くの仕事をこなし、より多くの給料をもらう。それはわかるけど、頑張れば頑張るほどドツボの気もするわ」

 先輩のぼやきは労働の本質を表現しているようでした。お金がなければ生きていけませんが、稼ぎすぎても使うアテがないのです。それでプライベートがなくなれば、なんのために生きているかわからなくなる。仕事人間なんて御免被るというスタンスの私には、永遠の命題でしょう。

「何かあれば相談なさいな」

 先輩は最後に、

「もし担当冒険家が指標に届かなくて詰められそうだったら、扱いが楽なのを回してあげるから」

 それだけ言って別れていきました。私はその背に一礼します。

「はい。ありがとうございます。ごちそうさまでした」

 つくづく頭が下がる、立派な方です。

 きっと私は、この人を超えることなんてできないんだろうな。

 そのときは、そう思っていました。

 そのときは。

「ども」

 翌日、開局早々、彼が来ました。私の初めての担当冒険家、ヴァルサールさんです。

「おはようございます。クエストの受注でよろしかったでしょうか」

「ああ、そうじゃないんですよ」

「…………?」

 通常、二回目に来る冒険家のやることといったら、クエストを受けに来たくらいしかありません。やるべき手続きはすでに前日に完了しているので、私もそう思い込んでいました。

「昨日一通り読んでおきましてね」

 彼が取り出したのは、私が渡した本でした。いくつかの紙片がはさまっており、裏表紙の方までそれが続いています。

「もう全部読んだのですか」

「要所・要所をね。一字一句を追ったわけじゃないよ」

「なるほど」

 よくわからないまま私は頭を揺らしました。正直、当時はここからどんな展開になるか予想ができませんでした。今の私なら、『ああ、彼らしいな』と思わず笑ってしまうんでしょうけど。

「まずギルドについてなんですが」

 数ある紙片のはさまったページの一つが開かれる。

「それにつきましては、昨日申し上げた通り、現在のランクでは」

「それはあくまで『設立』の要件ですよね」

 ええ、そうです。

「『加入』については、黒でも白でも問題ないはずです」

 ここから彼の、まったく冒険家とは思えない、一般の冒険家とははるかに異なる、

「加入申請をお願いします」

 冒険家活動が始まったのです。

「わかりました。それでどちらの」

 ここで私はすぐに切り替えました。なるほど。誰かに誘われたか、身内がいて、すでに設立されたギルドに入りたいんだ、と。そう思ったのです。

 結果としては見当外れもはなはだしかったんですけどね。

「まずギルドメンバー全員が一ヶ月以上消息不明なところをリストアップしてください」

「ええと……少々お待ちください」

 私は席について早々、窓口を離れることになってしまいました。

「まずこちらが、イガウコ支部の全ギルドなんですが……」

 一枚の巨大な表を持ってきた私は、彼を事務局の端の大きなテーブルのある席へ誘導しました。ここは冒険家が大勢で会議するときや談笑するときに使われるスペースですが、まだ開局したばかりなのもあってか、誰もいませんでした。

「事務局としては、ギルドメンバーひいては冒険家が活動しているかの有無は、参加奨励制度に紐づけされています」

「ああ、これね」と彼は該当のページを開きます。

「一日一回、担当の受付嬢にコンタクトを取るか、来局すればってやつ」

「はい。そこで冒険家を継続する意思があると判断し、奨励としてアイテムや資金を提供します。これは冒険家個人としてはもちろん、ギルドに参加していればギルドメンバーとしての参加奨励も加わります」

「ログボね」

「ログ……」

「ああ、こっちの話」手の動作でもって、『続けて』と促す彼に私は、

「参加奨励制度の活用をもって、その冒険家およびギルドメンバーの活動を承認しますので、それがなければ、その時点から活動停止あるいは活動不能と解釈されます」

「つまり俺の探してるギルドは、一ヶ月以内にログ……参加奨励アイテムなり金なりをもらっているギルドメンバーがいるかどうかって話になるんだな」

「その通りです」

 私は表の中のいくつかのギルド名にチェックを入れていく。

「こちらの中から加入されるギルドを選ぶということでよろしいでしょうか」

「まあ、そうなるね」

 なんとも含みのある言い方に私は引っかかりを感じましたが、加入申請書を彼に渡します。

「それではこちらに加入先とサインを」

 今思えば、この時点で疑問に感じるべきだったんです。通常、ギルドに入る冒険家というのは、入るギルドに尊敬なり親交なりがあるメンバーがいるか、ギルドとしての活動が活発であるかが参加理由や判断基準です。しかし彼の場合は真逆でした。まったく活動していない、もう誰もいないギルドを要求しているんですから。

「じゃあこれ」

「はい。……たしかに、受理しました」

 提出された書類に不備がないか確認して、立ち上がろうとした私に彼は待ったをかけました。

「で、だ」

「? はい」

「これで俺はここのギルドマスターになるわけだ」

「そうですね。そうなります」

 ここで私は、彼がなぜ一ヶ月の不在期間のあるギルドに絞ったのかがわかりました。ギルドはリーダーであるギルドマスターが一ヶ月以上、当該ギルドでの活動の確認や証明ができない場合、ほかのギルドメンバーにギルドマスターの権限が移譲されるのです。その優先順位は、ギルドサブマスターを筆頭とした役職の序列、在籍年数や貢献度をもって判定されるのですが、このギルドには名目上、彼しかいないので、自動的に彼が後任のギルドマスターということになります。

 言い換えれば、この瞬間、彼は自分のギルドを手に入れたのです。

「ギルドにはそのギルド専用の倉庫がある」

「はい。ギルドストレージですね」

 その用途は、ギルドで共有する物品や金銭、ギルドで受注したクエストやスカウトの報酬の保管です。

「それ全部俺名義に移しといて」

「あ、ああ……なるほど」

 彼の魂胆が読めました。自分専用のギルドを持ちたいのではなく、当該ギルドが保有する財産が目当てということです。これは盲点でした。普通の冒険家は、自分のギルドを作って運営することに満足するか、ギルドに入ってギルドマスターに付き従う、その二択です。こんな風にギルドを扱うのは、彼くらいのものです。

 このときの私は、彼の思惑を完全に理解できたと確信しました。ええ、これで彼の話は終わりだと、そのときにはそう思っていたんです。

 その先が、その奥底が、

 まだ控えていたなんて、

 思いもしませんでした。

「じゃあ、次に、このギルドに入りますわ」

「は、はい……?」

 彼はまだ止まらない。

「次はここ」

 トントン、と表にある別のギルド名を彼の指が叩きます。

「ええとですね、一人の冒険家が所属できるギルドは一つだけでして」

「じゃあ移籍って形で」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 私は大急ぎで窓口に戻り、そばの本棚から通達を一冊にまとめたものと、これまでの手続き上のケーススタディが記された事例集を抱えました。

「よっと」

 分厚くかび臭いそれを彼のいるテーブルで開き、目を走らせる。

「そうするとですね、今いるギルドは解散しないといけません」

「あ、そうなの」

「ええ。ギルドマスターの移籍の場合、後任を指定してからでないとできないので、後任がいない場合は解散させてから……」

 該当の箇所を私は指でなぞります。通達とは、冒険家協同組合事務局内で上層部が出した指示であり、事例集は実際に起こった手続き上の問題をどのように解決したかの前例が載っています。冒険家に配布するルールブックに記載された規則で対応できない場合、こちらを参考や基準にします。

「畳まなきゃだめか……」

「申し訳ございませんが。では今から解散届を持ってきますので」

「いや。いらない」

 しかし彼は断りました。諦めたのだろうか、と思った当時の私はまだまだでしたね。

「かわりに冒険家登録とギルド加入の書類を……」

 彼が一・二・三……と表にあるギルドを数えます。

「ざっと五〇ばかり」

 それから彼は立ち上がり、浮浪者の群れの前で足を止めました。

「はい注目!」

 パンパンと手が鳴らされます。何事かと浮浪者たちの視線が彼に集まります。

「なんだ?」

「あんときの兄ちゃんじゃねえか」

「[のざわな]のあれは美味かったなぁ。また食いてえもんだ」

 このあと、私は彼を冒険家と考えるのはやめました。

 だってこの人、冒険する気ないんですもん。

 まったく、

 これっぽっちも。

「この書類に名前書けばええんだな」

「俺の名前なんだっけ」

「知らねえし。つうか俺も名前あったっけ」

「ワシらでも冒険家になれるんだな」

「冒険なんてしないのにな」

「これで稼げるなんてな」

「おう、外の仲間連れてきたぞ。これで五〇は超えるだろ」

 わらわらとテーブルに集まった浮浪者たちがペンを片手にガヤガヤやっています。

「なんでもいいぞ。ゴンベエでもタゴサクでも」

 彼の指導のもと、浮浪者たちが冒険家登録申請書を次々と完成させていきます。

「はい。じゃあこれ」

「は、はぁ……」

 ごっそり渡された紙の束に、私は目を通す。字の汚さで読みにくいですが、書類上は問題ありません。〝通し〟です。

「ええと、それでは、みなさん本日より冒険家ということで……」

「よし。次はギルドに入れ」

 彼はギルド加入届を新米冒険家たちに渡していきます。

 私はようやく、彼の目論見がわかりました。

「つまりこういうことか」

 終業後、仔細を報告された支部長は座った椅子を揺らします。

「まず彼が無人ギルドに加入し、自分にギルドマスターを自動委任させる。そしてギルドストレージの中身を回収する。その後、抜け殻となったギルドには浮浪者を代理人として置く。これを五五件……」

 結局、その手続きだけで一日が終わってしまったわけです。

「イガウコ支部の休眠ギルドおよびそのギルドが有していた財産すべてが彼に渡ったわけだね」

「はい」

「…………ふむ」

 支部長は思慮にふけるように私から視線を外しました。

「あの、これって詐欺や横領にならないんですか」

「ならないだろうね」

 支部長はさらっと否定しました。

「たとえば彼が自身をギルドマスターだと偽ってギルドストレージに手を出せば詐欺として立件できる。しかし彼は正規の手段でギルドマスターに就任している。横領にしても、ギルドマスターにはギルドストレージの管理権が与えられる。ギルドマスターとなった彼がどう処理しようが自由だ」

 私と同じ考えで安堵したような、釈然としないような……複雑な心境です。通達や事例でも、これを問題とするような記述はありませんでした。

 つまり彼は一日であっという間に、なんの依頼をこなすこともなく、合法的に巨万の富を手に入れたのです。

「これって誰かの責任問題になったりは」

「その点は心配いらないよ。むしろ倉庫整理がはかどった。うちの備品係も大助かりだろうね」

 その言葉に私は胸をなでおろします。まるでとんでもない犯罪に加担したような心持ちでしたから。

「あくまで規則通りに処理をした結果だ。何も問題ない。そう、我々勤め人は万事それでいいわけだ」

「失敗をしなければ良い、ということでしょうか」

「うん。労働者は定められたことをして、ただ粛々と過失なく給料分働けばいい。仮に一〇〇の成功を収めたとしても、たった一つの失敗で無に帰すこともある。で、あれば、危ない橋を渡らず、ただ安全な道を行くといい」

 無理や余計なことをして成功したとしても、もらえる報酬などたかが知れている。それよりも、もし失敗をしたら減給等の懲戒処分を受ける危険性を考慮すべき。支部長は、そうした労働者の論理を説いているのでしょう。

 無難に平穏に。

 それを引退までコツコツと積み上げる難しさは、今更説明するまでもないでしょう。

「それにしても『冒険するだけが冒険家ではない』、か。私も君もこれで一つ学んだわけだ」

「それは……まぁ」

「しかし、彼が現在在籍するギルドも含めれば五六ものギルドが事実上、彼の手に渡ったわけか」

「どうかしましたか」

「いや。この局面では気にすることじゃない」

「そうですか」

 支部長はこの時点で何かを危惧していたようですが、新人の私には何がなにやらでした。

 そう、彼は冒険家活動二日目にして、五〇を超えるギルドを掌握したのです。これがのちに大波乱をもたらすことになるんですが……それは別のお話ですね。

「それで今後のことなんですが」

「うん」

「元・浮浪者の方々はギルド所属の冒険家になったので、ギルドと冒険家の参加奨励制度の対象となります。今後は彼らへの配給をすることになるかと」

「そうなるだろうね。冒険家になるのに資格や条件はいらない。そしてギルド加入なら黒星でもできる。ケチのつけようがないとはこのこと」

 盲点というのかもしれません。普通、冒険する気もないのに冒険家にはなりません。参加奨励制度もあくまで冒険家の活動を支援するものです。しかし彼は不労所得の手段ととらえたのです。結果として、こちらは五〇人超の人間を養うことになりました。

「結果としてみれば、うちの一人負けということになるんでしょうね」

「そうでもないだろう」

 しかし支部長は否定します。

「一日で現役冒険家五五人の新規獲得。これは私の知る限り全支部中最高記録だ」

「それは……ええと……?」

 なにか、とんでもないことを言われている気がします。

「おめでとう」

 なぜ祝われているのでしょう。たしかに書類を処理したのは私です。あ、でも、それはつまり……

「君がうちのエースだ」

 私はめまいがしました。

 新任二日目にして、私は都合五六人の現役冒険家を担当する受付嬢になったのです。

「彼は巨万の富を、浮浪者には支援を、君には史上最高の栄誉を。まったく、絵に描いたようなハッピーエンドじゃないか」

 支部長の感嘆が遠くに聞こえます。このときの私は失神寸前でした。

 翌朝出勤すると、私はその場の職員全員に囲まれて揉みくちゃにされたのは言うまでもありません。出勤して壁に貼られた指標グラフを見たら新人の★が一夜にして約六〇になっているわけですからね。当然、グラフの前には人だかりができ、当人がやってきたら質問攻めをしてしまうのは自明です。

「おめでとう」

「これめでたいんですか?」

 先輩の素直な祝福にも素直にうなずけませんでした。

 朝の〝配給〟を終えた私は窓口でぐったりします。

「まあいいじゃない。これで新人王はいただきだよ」

 大量の参加奨励品を持ってきてくれた備品係のおじさんは笑っています。

「だいたいですね、私はもっと何事もなくこなして裏方にですね」

 私の嘆きをよそに、先輩は苦笑して自身の担当冒険家の相手に戻り、備品係のおじさんもやれやれといった調子で去っていきました。

「あのよ」

 掛けられた声に振り返ると、私の担当冒険家の一部がいました。つまり、数人の浮浪者です。

「どうしました?」

 全員分たしかに配ったはずですが。私が怪訝けげんにしていると、彼らは気まずそうな恥ずかしそうな仕草で、

「もらってばっかりってのも悪いし……」

『なあ』や『んだ』といった同意の声。

「俺らでもできるような依頼、なんかねえかなって」

 ――――『もしかしたら、冒険家としてがんばるようになるかもしれないでしょ?』

 昨日の先輩の言葉が脳裏によみがえります。

「依頼、受けていいかい?」

 冒険家としてがんばりたい。そんな願いをかなえるのは、彼らの受付嬢である私の役目。

「はい!」

 ついうれしくて、私は声が弾みます。

「もちろんです!」

 そう。

 このときの私達は、まだ始まったばかり。

 私も彼らも、これから先へ。

 ここより先へ、

 歩き出したばかり。

(第4章)

 泣きたい。

 泣けば楽になれるならとうに泣いている。

 事務所で僕は頭を抱えていた。

 改装工事の見積もりをした、それまではよかった。あとは双方が納得できる内容を提案して着工させればいい。

 そう思っていたところに、あの老人が介入してきた。かの老人は有無を言わさず滅茶苦茶な要求をしてきた。

『そんなもん断りゃよかったじゃねえか』

 棟梁の父はそう言うが、あれをその場で断れる人間などいるとは思えない。聞かなかったことにしてもいいが、それだと後が怖い。これは直感だが、あの要求を無視した場合、うちは欠片も残らず消されていそうな気がする。なんというか、そういう勢いというか恐ろしさがあったのだ。

 それゆえ、僕は知りうる限りの職人と人足を集め、持てる限りの労働力を総動員した。結果、[のざわな]の改装工事はとんでもないペースで完了したが、当然、そのツケは労働者に支払う給料に如実に表れた。

 基本的に、依頼主からいただく代金は前払いだ。しかしあの空気じゃ前金をもらえるわけもなく、今回の経費はこちらの手持ちから払った。つまり高くついた人件費は当然こっちが立て替えたことになり、うちの蓄えはそれによりほとんど吐き出した。貯金が底をつきれば、いよいよツケや借金という話になるが、個人的にそういう火の車は避けたい。

「ツチヤ、これ仕入れの代金な」

 避けたいが、避けられない。

 ゲンさんが僕の机に請求書を置いた。

「ああ、支払いはちょっと待ってくれます?」

「いいけど。それと」

 太い親指が事務所の出入口を指す。

「客来てるぞ」

 そこにはくだんの依頼人がいた。

「ああ、どうも」

 僕は立ち上がり、男女二人を応接間に案内した。応接間とは言っても、この部屋の片隅に仕切りを入れただけの粗末なものだ。

「ちょっと待ってください。今お茶を」

「お構いなく」

 そう言うのは僕と交渉していた男だ。青年に届くかどうかの少年といった見た目であるが、こちらへの値段交渉を含めた[のざわな]の立て直しを仕切っていたあたり、底知れぬものを感じる。

「欲しかった?」

「いえ」

 隣に座る男に問われた女は首を振る。彼女はたしかウェイトレスをしていた。

「いや悪いね。支払いが遅くなって」

 対面に座った僕に彼が申し訳なさそうにする。

「工事が終わってすぐ新装開店するはめになってさ、それから三日三晩ずっと満員御礼でさ。回復魔法と強化魔法をこいつに掛けてもらいつつ働きづめさ。それでもさすがに限界で四日目は臨時休業にして皆仲良く倒れてさ」

「大変でしたね」

 少女も苦笑した。なんとも景気のいい話だ。これなら代金は耳をそろえて払ってもらえるだろう。立て直しに失敗して工事代金も払えませんという話であったら、本当に泣いていたところだ。

「まったく、また死ぬかと思ったよ。……んで、支払いはおいくら?」

「まずですね、あの店の調査結果なんですが」

 僕は手元の書類のいくつかをめくる。

「あの物件、どうも[のざわな]が入る前に、別の飲食店が何代か入っていたようでして」

「居抜きか」

「はい」

 居抜きとは中古の物件に付属した設備をそのまま使用すること。新規で設備を用意するより安上がりだが、その設備をそのまま引き継ぐのだから老朽化といった負債にもなる。今回の場合は、先代からの飲食店設備をそのまま引き継いだわけだが、それが問題だった。

「これといった更新や修繕はなされていないようで、現在の技術から判断すると厨房はもとより店舗そのものの耐久性に難があるかと」

 本来、こういった調査結果は工事前に知らせるのだが、あの老人のせいで事後報告になってしまった。

「合間を縫っていくつか補強しましたが、根本的な改善とは言えませんのでご留意ください」

「事故物件つかまされたかな」

「あくまで現在の我々の技術水準からの判断ですから。当時から欠陥があったかについては断言しかねます。当事者間でどういった契約をされたかにもよりますし」

「そうなるわな」

 彼は腕を組んでため息を宙に上げた。

「それで、当初の依頼通り、全体のおおまかな塗装と補強は完了し、見た目は新しくできたかなと」

「まあ、あれなら文句はないね」

 本当なら仕上がりの確認も直後にするところだったのだが、これも事後承諾だ。依頼者側にしても、どうやらそこらへんの確認をする暇もなく、なかば見切り発車で営業再開したらしい。彼らもあの老人に振り回されている被害者だ。

「費用としては、余りの建材や塗料を積極的に使わせてもらいましたので、だいぶ抑えられました」

 この提案も着工前にするべきだったよな、と我ながら思う。

「最初は銀貨五〇枚だったけど、最終的にどうなったの?」

「銀貨二〇枚で済みました」

「わあ。すごいですね」

 少女が驚きと喜びの声を上げる。当初の値段の半額以下なのだから、それもそのはず。こちらとしても、きちんとした計算にもとづいた適正価格だと自信を持って言える。

「ほうほう」

 請求内訳書に目を通した彼は、懐から財布代わりであろう袋を取り出す。しかし僕の胸中は暗い。筋を通した、お互い納得づくの結果だが、こちらは完全に赤字だ。下手したら経営に痛手となるかもしれない。

「で、人件費の方は」

 ドシャリ。テーブルに置かれた袋から重量感のある音がする。

「あなたならそっちも書類にまとめてるんでしょう」

「え、ええ」

 企業秘密の四文字が頭をよぎったが、僕は給料支払明細書をまとめたものを彼に見せる。

「なるほどね。深夜に働かせたのと照明係まで用意すればそりゃ高くつくわな。そもそもの基本人数に加えて臨時雇いマシマシだし」

「あ、でも、それはあなたたちとは関係のないことですから」

 あの老人が勝手に騒いだ結果で、それに対して彼らは了承していない。[のざわな]に対して請求することはできない。

 泣きたいくらい資金繰りが苦しいのは事実だが、いわれのない代金を請求するくらいなら潔く潰れてしまおう。

「そこなんだがな」

 彼は手元の袋を叩く。

「この金は、あのうるさいじいさんがうちに投資した金なわけだ」

「はぁ」

「つまり元をたどればじいさんの金で、そちらさんがこんな割高な経費を使うはめになったのもじいさんのせいだ」

「そうとも言えるかもしれませんが」

「この人件費をざっと見たら合金貨一〇枚ってところか……ふーむ」

 そう。これがネックなのだ。無理して働いてもらった結果が、この高騰した人件費。これではどうあがいても赤字だ。

「迷惑料、特別料金……もろもろ合わせてこれでどうだ」

 袋の封をとき、三枚が卓上に並んだ。

 全部純金貨である。

「あの」

「あ、細かい方がよかった?」

「そうじゃなくて」

 大赤字から一転。

 一気に黒字にひっくり返った。

 しかし。

「こんなにもらうのも心苦しいというか、納得の問題というか」

「いいんじゃない? 経営苦しくないの? なんかさっき仕入れの払いもとどこおってたみたいだけど」

「それは……そうなんですが」

 みっともないところを見られてしまった。

「最近は仕入れ値も上がって、それをお客さんに押し付けるわけにもいかず……」

「仕入高の高騰、ね」

 彼は天井を見てから、

「それってあなたが仕入れてるの?」

「いえ。先ほど一緒にいた人が仕切ってくれてるんですよ。ゲンさんといって、うちの中心人物というか」

 棟梁があの調子で、僕自身も若輩者である。自然、海千山千のベテランが中心となってやっていくわけである。

「今までの仕入れの記録ある?」

「メモ書きなら」

 ちょっと待ってください、と僕は席を立つついでに金貨を受け取る。ここまで弱みを見られた以上、今更格好をつけてもしかたがない。素直にもらっておく。

「ああ、今回の仕入れはまだ払わなくていいから」

 すると、そんなことを言われた。

「それはいったい」

「まあ、そのうちわかるよ。わからない方がいいんだけど」

「……わかりました」

 意味深な発言だが、多めにもらっている手前、ここは従うのが道理だろう。彼に何か思うところがあるようだ。

「棟梁は?」

 デスクに戻ると、道具の点検をしていたゲンさんに聞かれた。

「ああ、いつも通りかなと」

「そうか」

 家で寝てるかどこかで飲んでるか……ずっとこの二択だ。昔は腕がよくて人望もあってイガウコの建設を担っていたらしいが。最近じゃこのありさまだ。もう常駐の大工は僕とゲンさんしかいない。

「これからヘルプ入ってるから。今日はそのまま直帰する」

「あ、わかりました」

 道具を抱えたゲンさんはさっさと出ていった。こんな小規模じゃ元から抱えてる仕事なんて全然ない。暇を持て余してるゲンさんはよそから引っ張りだこで、あちこちの現場に駆り出されている。もうどこがメインかわからないくらいだ。それでも僕の至らないところの面倒を見てもらっているのだから助かっている。

「大工ってさ、組に帰属意識とかないの?」

 メモ書きを渡すと、そんなことを聞かれた。

「どこもそうかはわかりませんが、イガウコでは基本的に仕事や人員を融通していますね。どこの組もコンスタントに仕事があるわけじゃありませんから。持ちつ持たれつです」

「となると、今いる組にこだわる理由もないのか」

「そうとも言えますが」

 妙なひっかかりを覚えたが、彼がじっとメモに目を通したのでそのままにした。

「何か気になるんですか?」

 僕の代弁者のようにウェイトレスさんが問うた。

「ちょっとね……そんなことをする義理も必要もないが、乗り掛かった舟だ」

 やがて彼は僕を見る。

「この請求ってさ、そのゲンさんってのが書いて渡してるのかな」

「あ、はい。最初は口頭報告だったんですが、それだと伝達ミスになるんで、書いて渡してもらってるんですよ」

「つまり仕入れ先が出してるわけじゃないと」

「そうなりますが」

 だいたい、この手のやり取りは書き起こしたりしないのだ。メモとはいえ、こうやって書き残してる僕の方が珍しいくらいで。

「仕入れ先はあなたもわかりますよね?」

「ええ、もちろん」

「面識は?」

「ありますが」

「このあと予定は?」

「特には」

「じゃあ、行きますか」

 彼は金貨袋を懐に戻して立ち上がる。

「仕入れ先に案内してくださいや」

「あの、何をするんですか」

 僕同様、彼女もわからないらしく、隣の彼を不思議そうに見上げた。

反面調査はんめんちょうさ

 彼はさらっとそう言った。

 仕入れ先の建具屋は、うちの事務所からそれほど遠くはない。というより、工事関係の事務所やらそれにまつわる建具屋や大工の住居は、利便性からだいたいかたまっている。ここら一帯が建設業地区と呼ばれるくらいだ。

「あら。息子さんが来るなんて珍しいね」

 建具屋の主人とは昔会ったきりであったが、お互い覚えていた。

「ご無沙汰しています」

 軽く挨拶する僕の横に彼が立つ。

「こちらの組とは長い付き合いと伺っております」

「え? ああ、そうだね。キノシロの棟梁とは何年も前からやり取りしてるよ。最近はゲンのやつしか顔を見せないけど」

「ここ一年は毎月そのゲンという方とやり取りしてるわけですね」

「ああ、そうだね。もうそのくらいになるかな」

「そうですか。ところで今日の純銀貨九〇枚の仕入れですが」

「はい?」

 すると建具屋の主人はあからさまに困惑した。

「別のとこと勘違いしてない?」

「どういうことですか?」

 僕は思わず口を開いていた。

「だって今日の取引でしょ? おたくとそんな値段でやり取りしてないよ?」

「そんなはずないですよ」

 主な仕入れ先はここしかないし、ゲンさんの請求書にもここだって。

「今日、取引したのは間違いないんですね?」

 彼の念押しに建具屋の主人は当たり前だと言わんばかりにうなずく。

「純銀貨三九枚でそっちに渡すと言ったよ。さっきの話だし、いくらなんでも忘れるはずないよ」

 それは――その価格は、昔からの平均的な仕入高だった。

「そうですか。最近は原料の高騰でそちらも大変ですね」

「え? なんの話?」

 建具屋の主人は困惑するばかりだが、僕も同じだ。

「最後に。ここまでの話、神に誓って本当ですね?」

「もちろん。《神に誓って》本当さ」

 そこで彼は合点がいったのか、大きく頭を縦に揺らした。

「ありがとうございます。あ、これ、うちのタダ券です。おかげさまで最近リニューアルオープンしたんですよ。よかったら」

「あ、ああ。そういう話ね」

 彼から一枚のチケットを受け取って、建具屋の主人は頬をほころばせる。

「ここ最近評判だよ。美味しいらしいじゃない」

「恐れ入ります。それじゃ、お待ちしてますんで」

 一礼した彼に引っ張られる格好で、僕たちはその場を後にした。

 うまく話をすり替えてその場を納めたのだと、後で気が付いた。

「これが反面調査ってやつよ」

 事務所に戻る道中、彼が教えてくれた。

「もともとは脱税を調べるための手なんだけどな」

 まだ整理のつかない頭で必死に僕は理解しようとした。

「売買契約――取引ってのは、売る側と買う側の両立が条件だ。つまり、一方が純銀貨九〇枚で何かを買えば、もう一方には純銀貨九〇枚で何かを売ったという事実が残る」

「それが食い違うなんてこと、本来はありえませんよね」

 彼女の言葉に同意だ。

「となると、どちらかが悪意か過失でミスってることになる」

「じゃあ、ゲンさんが聞き間違えたんですよ、きっと」

「それ本気で言ってんの?」

「…………」

 図星をつかれた僕は返す言葉がない。

「仕入れ値は昔から変わっていない。にもかかわらず、請求されている値段は右肩上がりだ。明らかにバレないようにごまかしつつ、次第次第にピンハネする額をつり上げてる。原料の高騰なんてもっともらしい言い訳つきでな。逆にこれで『うっかり』なんて線は消えた」

「昔から同じくらいの費用なのに倍近くの値段だと偽って、その差額で儲けていたわけですね」

「マオはほんと誰かさんと違って賢いなぁ」

 彼は感心。僕は傷心。

 ずっと騙されていた。

 認めたくないが、そういうことだろう。

 親子そろって、何もかもを丸投げしていたところにつけこまれたのだ。

「それで、どうするね」

「まず事実確認を」

「それでクロだったら?」

「盗んだ分は返してもらいます」

「で?」

「多分、うちを辞めてもらうことになると思います」

 返金と解雇。

 妥当なところだろう。

 僕はそう思っていた。

 しかし。

「それじゃよそに流れるだけだな。しれっと寄生先を替えて、『運が悪かった』くらいに考えて平然と働くだろうさ。最悪、あなたたち親子の悪評流して被害者ヅラだ。この組、下手したらこの業界で爪弾つまはじきにされるかもな。そうなると干上ひあがって、最終的には」

 彼の予想に異論を唱える隙はなかった。実際、そうなる未来がありありと浮かぶ。

「それは、しかし、でも……」

 そうなるとして、それを阻止する手立てがない。黙って寄生され続けるか、切り捨てて血を流すか。この二択しかないだろう。

「いじめすぎじゃないですか?」

 暗雲たる思いで胸をいっぱいにしていると、マオさんが彼に言った。

「これいじめか? かなり助け舟出してると思うが」

「だったら最後まで舟に乗せてあげればいいじゃないですか。お店の工事がんばってもらったんですし」

「それについてはもう相応の報酬を……まあいいか」

 彼は諦めがついたような顔で僕を見た。

「ゲンさんとやらは今日はずっと、よその手伝いなんだろ?」

「……はい」

「じゃあすぐにケリがつくな」

 彼にはなにやら、まだまだ考えがあるらしい。

 彼はいったい何者だろうか。

 このとき僕は、自分のところの心配より、彼への興味が勝っていた。

「すみません、ゲンさんいますか?」

 とある工事現場に僕らはいた。イガウコ内での工事の情報はだいたい把握している。そのうえで、よその手伝いが必要な規模の工事なんて限られている。

「ああ、彼ね。来てるよ」

 はたしてそこにはゲンさんがいて、作業に従事していた。

「ここの現場責任者は?」

「うちの親方だけど」

「呼んできてもらえますか」

 ここの親方はうちの父と古い付き合いで、それなりに親しくしていた。父とは違い働き者で、今ではイガウコで一番規模の大きな組を率いている。

「何か用かい?」

 彼の申し出に応じる形で、親方がやってきた。

「この場全員の時間を買いたい。まあ一〇分もあれば充分でしょう」

「いきなりそんなこと言われてもねえ。こっちも工期にそんな余裕は」

 ピィィィン。

 彼が人差し指に載せたコインを親指で弾く。

「おっと」

 それを親方が受け止める。

「これでも不服ですかな?」

 親方は自身の手にあるものを見て、それが純金貨だと知ったとたん、

「喜んで!」

 快諾した。

「金の力は偉大だなぁ」

 のほほんと言う彼は、傍観者になっていた僕の肩を叩いた。

「美味しいところは任せるよ。ここまでお膳立てはしたんだし、詰めくらいは当人がやろうね」

「それは、まあ」

 不正の裏付けはそろっている。立会人もこれだけいる。あとはここで推理の一つでも披露すればしまいだろう。

「安心しろ。逆ギレされて暴力沙汰になりそうだったら助けてやる。なにせ俺は魔王を倒して世界を救う勇者だからな」

 その言葉にマオさんは微笑むが、僕はこの言葉にはどうにも信用できない。彼はどう見ても強そうに見えないし、丸腰である。単純な殴り合いなら僕でも勝てそうだ。

 それはさておき。

「何か用か?」

 ゲンさんがやってきた。僕たちを中心に、ほかの大工たちが円を描いて集まっている。

『なんだなんだ』

『なんか見てほしいもんがあるんだと』

『まあ休憩にはなるか』

 ガヤガヤとした喧騒を尻目に、気おくれと緊張している僕は恐る恐る口を開こうとし――――

 開けられなかった。

「はよ」

 しかし彼に背中をバシバシ叩かれ、勢いに押されてしまう。

「……ゲンさん、今までだまし取ったお金……返してください」

 すると岩のように凝り固まった普段の表情に、動揺と怒りが走った。

「なんの話だ」

「仕入れ値をごまかして過剰にうちに請求してだまし取ってたんですよね。これまでずっと」

「だからそれは原料の高騰が」

「とぼけても無駄ですよ。もう仕入れ先から裏は取りましたから」

「…………」

 顔をそらし、必死に言い訳を――逃げ道を探しているようだった。しかしこの衆人環視の中では、逃げ場などないと悟ったのか、

「うるせえな」

 ぼそっ、と。

「役に立たねえ棟梁とガキを誰が養ってると思ってんだ。これくらい当然の手間賃だろうが」

「それで組が潰れたらなんの意味もないじゃないですか」

「知るかよ」

 あまりの無責任さに、こんな男を今まで信じきっていた己が情けなくなった。

『潰れても別のとこ行くだけだしな』

『しょせん雇われなんてそんなもんだ』

『にしたってこれはねえわ』

 野次馬の声を背に、僕は最後の詰めをする。

「《神に誓って》、今まで僕たちからだまし取ったお金を返してください。そして、こんなことは二度としないでください」

 真実の呪文である。《神に誓って》というフレーズを口にすると、トモノヒ教徒は嘘がつけない。教団の影響が希薄なイガウコの住民であろうと、ほとんどの人間が大なり小なり信仰しているため、誓約の道具としては有効である。

「なんだと」

 青二才に言いたい放題言われることに我慢ならないのか、職人気質の男は不機嫌そうに肩をいからせる。

「もうやめな」

 そこに親方が割って入る。

「見苦しいぜ。これ以上ジタバタしたってどうにかなるもんでもなし。スパッと認めて楽になっちまいな。大工だけじゃなく、人間としても終わっちまうつもりかい」

 そう促されて、男も観念したらしい。

 周りに顔を見られたくないのか、うつむいた。

「……《神に誓って》、そうする」

 その誓いを最後に、その場はお開きとなった。

「結局親方にいいところ持ってかれちゃったじゃん」

 事務所への帰り道、彼はぼやいた。

「まあでも、親方も心配してくれて、これからは積極的に職人と仕事を回してくれるそうですし」

「結果オーライってやつですね」

 マオさんの言葉に僕はうなずく。トータルで見れば、大赤字確定だった仕事は大黒字に化け、仕入れ代金をつまんでいた職人は事実上業界から追放となった。ついでに今後の仕事のアテまでできた。

 万々歳の成果である。

「色々ありがとうございました」

 事務所前で僕は深々と頭を下げた。

「おいくら払ったらいいでしょうか」

 その申し出に彼は手を横に振った。

「あー、そういうのいいよ。さっき払った金が戻ってくるようなもんだし」

「しかし」

「じゃあ、こっちが困ったら恩返しでもしてくれればいいよ」

「そうおっしゃるなら」

「だいたい万事解決ってわけでもないだろ。結局真実の呪文ってのは、当人の自覚に依存してる。過去にどんだけつまんだか自分でもあやふやだったら、もう追いきれない。最悪改宗して逃げ切りだってありうる」

「それはそうかもしれませんが」

 思わず安堵していた自分を恥じた。

 そこまでよく頭が回るな。

 僕は彼に驚くばかりだ。僕だったら、組が食いつぶされるまで何もできなかっただろう。仮に何かのはずみでピンハネに気づいたとしても、感情に任せてあの男を責めて手詰まりだったろう。

「あなたは何者なんですか」

 気が付けば問うていた。

 [のざわな]の立て直しにしても、うちで起きた問題への一連の解決にしても、ただ者ではない。

 本当に彼は何者なのか。

 彼は少し考えこむ素振りを見せた。

 そして――――

「俺は」

「『コンサルタントのサダミ・アツム』ねえ」

 道具屋の跡継ぎは「知ってる?」と周りを見る。全員が否定した。

 仕事終わりに稼業の後継者連中が酒場『ファミリーバンチ』で談話するのも、今となってすっかり恒例だ。

「今日がツチヤのおごりってのは、そういう事情だったわけね」

 商人の跡取りがぐいっと酒をあおる。

「今までおごられてばかりだったからね。今日は好きなだけ頼んでよ」

 僕が苦笑する。思えば、今までまったく稼げてなかったからおごられてばかりであった。

 そこでふと、店内のあるものが目に入った。

「あ、ちょっと」

 そばのテーブルを拭いていた店員に声をかける。

「なにか」

 短髪の男性はこちらに体を向け、メモ帳を取り出す。無表情に近い顔色だが、不機嫌というわけではないだろう。見た目は僕らと同世代。

「あ、注文じゃなくて」

 僕が店の奥へ指をさす。そこはカウンターになっていて、店主が常連と会話しつつ調理をしている。

「あそこに飾られてる絵なんですが」

 カウンターに接した壁、店主を見下ろすように飾られた絵が、ふと気になったのだ。

「ああ、あれですか」と店員は気づき、

「数ヶ月前の集団通り魔事件を知ってますか」

「話だけは」

 数ヶ月前にイガウコを聖十字騎士団なる連中が襲ったというあれだろう。その日は作業現場に出張っていて、僕は直接は関わっていない。

「あのとき、この店を命がけで守ってくれたギルドの絵ですよ」

 そこには大勢の人間が描かれていた。中心にはギルドの中心人物であろう凛とした女性と大柄な女性がいて、彼女らを囲うように冒険家たちの姿があった。

「店を占拠した連中を倒し、店内の人間はもちろん、近隣住民を助けてくれた。それに対する感謝というか、供養みたいなものです」

 人づてに聞いた話では、その事件で生存したギルドひいては冒険家は数えるほどしかいないという。おそらくは、あの絵の人達は、もう……

「わかりました。ありがとうございます」

「いえ。ご注文は何かございますか」

「ええと……」

 何かないかなと僕がテーブルの上を眺めていると、

「ちょっとサトイ!」

 耳にキンキン来る声が飛んできた。

「こっち手伝いなさいよ!」

 奥の方で女性店員が叫んでる。長い髪を頭のてっぺんでまとめ、後ろへ尾のように垂らしている。歳はこっちも同じくらいかな。

「申し訳ございません」

「あ、いえ」

 一礼する彼に僕は、

「大変ですね。あんな同僚で」

「いえ。ああいうところもひっくるめて受け入れるのが男の器ですから」

「はぁ、そうですか」

 僕は去っていく背を見送った。

 僕はあんなキーキー騒がしいのは嫌だけど。

 僕はやっぱりもっとおとなしくて……

 僕は川を流れる木の葉のように自然と隣を見る。

『ハンザでも妙な噂があるんだよな。ハンザに入らずに好き勝手に商売してるやつがいるって』

『それヤバくね?』

『ヤバい。いろんな意味で』

『大ケガくらいで済めばいいけどな』

『ほんとな』

 対面に座る道具屋と商人の子供が意味深な会話をしている一方で、僕の隣の彼女はしずかにつまみをつまんでいた。

「コンサルタントって知ってる?」

「ううん」

 リスみたいに食べる彼女は首を振る。

「繁盛していない商売を立て直したり、新しく利益になることを作り出したりするんだ」

「そう」

 彼女は鍛冶屋の娘だ。いつも物静かで控えめだ。

 そんな彼女を僕は――――

「最近ね」

「ああ、うん」

 珍しく彼女から話を始めた。

「私の作品売れたんだ」

「あの、土を固めて焼くとかいう」

「そう。焼き物」

 彼女の家の本業は鍛冶だが、彼女の父は娘に継がせる気がないのか、彼女はその家業に携わることがない。雑用ばかりやっていた彼女が思いついたのが、焼き物とかいうやつだ。

「これで私もみんなにごちそうできる」

「そこ気にしてたんだ」

 この集まりは相互扶助が基本だ。儲かっている人がそうでない人の分も出す。商売なんて波があるのだから、儲かってる時に出せばいいというわけだ。

「うち、ずっと貧乏だったから。もしかしたら、また仕事がもらえるかもしれない」

「そうだといいね」

 祝福を――幸福を願っているのは本心だが、心のどこかで複雑なものを僕は抱えていた。僕が独り立ちして、自分の組を持てるようになったあかつきには、困窮してる彼女の白馬の王子に―――――なんて思い描いたのはいつからだったか。先に彼女が売れ出したら、それはそれで釈然としないのも本心なのだ。

「その人ね、私の作品をすごく褒めてくれて、私が作ってあげたらすごく喜んでくれて。私も嬉しくなって」

「その人って、男?」

「うん」

 …………不穏だ。

 にこにこの彼女とは裏腹に、僕はひやひやしていた。

「いやあ。あの貯金箱はいい仕事だったよ」

「ありがとうございます」

 鍛冶屋の前まで来た彼に挨拶したらお褒めの言葉をもらえた。

 期待していたら、本当に来てくれた。

「それでちょっとまた頼みたいことがあってね」

 私の弾む心を知ってか知らずか、そんな提案をしてくれた。

「今度は食器を作ってほしいんだ」

「食器ですか」

「深皿っていうのかな。こう……」

 彼は手ぶりで伝えようとするが、すぐに思い直す。

「やっぱ実物を見せた方がはやいな」

「ええと?」

「ある料理があってな、その料理に似合う食器をな。このあとなんか予定ある?」

「ええと」

 私は店の中で鉄を叩いている父を見た。

「なるほど。あっちの許可か」

 それで察したらしい彼は店に入り、父の後ろに立った。

「お父さん、娘さんを借りていいかい? 洗って返すから」

「勝手にしろ」

 父は振り返りもせず、それだけ。貴重な大口のお客様になんて態度でしょう。だからいつまでたってもこの店には客がつかないの。

「じゃあ行こうか」

「あ、はい」

 ええとつまり、私は彼に連れられてご飯を食べに行くということだろうか。

 んー?

 これってひょっとして。

 …………デート?

「ちょっと待ってください」

 先を行こうとした彼に声をかける。

「着替えてきますから」

 さすがに汚れた作業服というわけにはいかない。

「じゃあそれまで店の中で待ってるよ」

「すみません」

 私は詫びて奥に引っ込む。

 服を漁って改めて思うのは、私はあまり着るものを持っていない。寝巻と作業服といくつかの私服。どれもすっかりくたびれて、年季を感じる。

 とりあえず、昨日の飲み会で着ていったものでいいだろう。

 私が戻ってくると、男二人で何やら話し込んでいた。

「頼んだら剣作ってくれる?」

「ああ」

 座って作業する父のそばに彼がしゃがみこんでいる。

「剣売れてる?」

「全然」

「じゃあなんで作ってんの?」

「鉄打ってないと調子狂うんだよ」

「作るより売る努力した方がいいよ」

「うるせえ」

 彼は私に気づいて振り返る。

「お待たせしました」

「いいよいいよ。それじゃ行きましょ」

「はい」

 デート……なのかなあ?

 結局、その疑問は聞けずじまいでした。

「あの店、取引先とかないの?」

 店を一緒に出て数分、お互いしばらく無言でしたが、彼が口を開きました。

「そういうのはいないです。たまに冒険家の方が使ってくださるくらいで。いつも剣を作ったりしてるんですが、ただの暇つぶしで売る相手もいなくて」

「無駄に剣作って店内を圧迫してるだけ、みたいな」

「はい……あ、でも最近は古くなった剣を戻してまた作り直してるので、そこまで邪魔には」

「はてしなく不毛っすね……」

 彼は呆れた顔をした。

「おかげで私も別のことに打ち込めてこうなったわけで」

「やっぱり独学か」

「最初は土をこねて遊んでただけなんですけどね。そのうち焼いてみたらどうなるかなと」

「そういう発想は大事だね」

 彼はうんうんうなずく。

「結局、なんでも単純に作るだけなら誰でもできるんだよ。そこから先は、その人の発想力勝負ってことになる。俺はね、あなたのそういうところに期待してるんだ」

「あまり期待されると重圧が」

 という反応をしつつも、私はどんなものだろうと思いをはせていた。どんな料理が出てきて、それに似合う食器とは、どんなものだろう。私はひそかな興奮を覚えた。

「相変わらずひどい行列だ」

 彼の目の先には、ずらっと並ぶ人の群れがあった。うちの店とはまるでダンチというやつ。

「[のざわな]ですよね。高名な食通も唸らせる味だとか」

「行ったことある?」

「そんな。とてもとても。うちの稼ぎじゃ一生縁はないですよ」

 大変な美味らしいが、それだけ高額なのだ。一食のためにそこまでできる余裕など、万年貧乏なうちにあるはずがない。

「まあ目的地ここなんですけどね」

「え」

 彼は行列を避けるようにぐるっと回って、裏口から[のざわな]に入っていきました。

「ほら、どうぞ、入って」

 彼の手招きに誘われて、私も恐る恐る入ります。そこから通路を抜けた先には厨房がありました。

「一個作って持ってきて。あと部屋借りるよ」

「わかった」

 彼が調理している女主人にそう頼み、今度は別の部屋に私は案内されました。

「あの、えっと」

「まあ座って」

 ここはご主人の居住スペースのようで、リビングのような部屋です。簡素なテーブルを囲むように置かれた椅子にとりあえず座ります。

「外から見たら人気の行列店だけど、一人のときは店内の座席数を絞ってるから、一人でもそこまで大変ではないんだよ実際。初日は臨時で席増やさないとさばけないレベルだったけど」

「はあ、そうなんですか」

 って、そうじゃなくて。

「並ばなくてもいいんですか」

「いいよ」

「お金の方は」

「いらないよ」

 えぇ……。突拍子もなさすぎて、頭が追いつかない。何を聞けばいいのだろう。

「この店立て直すときに報酬のこと聞かれてさ。儲からなくて立て直すところから金をとってもあれだし、じゃあ好きな時にタダで食わせてくれて残り物もらえればいいかなって」

「は、はぁ」

 そういえば、[のざわな]が繁盛するようになったのは最近。ということは……

「おまたせ」

 私の思考は、ご主人がもってきた料理によって中断された。

「これの器を作って欲しくてね」

 彼の言葉がうまく頭に入ってきません。

 それもそのはずで、目の前の料理に脳の処理能力を奪われてしまったのだから。

 これがあの『のざわな丼』。

「たまには手伝いに来てもいいのよ」

「嫌だよ。もう二度とやんねえ」

 彼とご主人の会話を尻目に、私は恐る恐る目の前のごちそうに手を伸ばし――――

「食べたときは『もう死んでもいい』と思いましたね」

「大げさだなぁ」

 数日後、一〇個の試作品を持ってきた彼女が開店前の[のざわな]にやってきた。

「一食で人生に満足せんでも」

「料理人冥利みょうりには尽きるけどね」

 テーブルに並べられていく丼に主人は興味深そうに息を漏らす。

「今後はこの器に盛り付けていこうと思うんだ。丼とは、やはりこうあるべきなんだ」

「私はいいけど、これ割れたり欠けたりするんじゃない」

「そこにもおもむきがあるんだよ。美学だよ」

「ああ、そう」

 そこには興味なさそうに主人は器を手に取り眺めた。

「どれがいい?」

「どれもいい品だと思うけど」

 形状や模様が様々な食器が卓上を占拠していた。いわゆるコンペというやつだ。

「今まではずっと同じタイプの木皿でしたからね」

 別のテーブルを拭いていたマオも参加した。

「これだけでもう新鮮というか」

「全部手作りだからな。一つとして同じものはない。あとは基準となる形や色や柄を決めていくのさ」

「全部いいデザインだと思いますよ」

「んじゃ全部採用で」

「ありがとうございます」

 鍛冶屋の娘は嬉しそうに頭を下げた。よかったね。

「丼をそこそこ作ってもらって、あとは別メニューに合わせてまた作ってもらうことにするよ」

 今日の分ね、と俺は銀貨袋を渡した。ずっしりとした重みに鍛冶屋の娘は驚いた。

「結構、ありますね」

「純銀貨三〇枚ね」

「え」

「ひとつ純銀貨三枚として一〇個だから……買い叩きすぎたか」

「あの器ひとつで純銀貨三枚……」

「ちなみにあと三〇〇発注するから前払いで純銀貨九〇〇枚、もう用意してる」

 俺はテーブルの下から特大サイズの袋を取り出し、彼女の足元に置いた。あー重かった。

「こっちでも確認はしたけど、合銀貨が混ざってないか確認してくれ」

 俺が袋の口を緩めて中を開くと、ギンギラギンの銀の光が放たれた。

「…………?」

 なんの反応もないことを不思議に思った俺は立ち上がり、少女の顔の前で手を振る。

 立ったたまま気絶してやがる……

「ちょっと多すぎたパターン?」

「多分ね。私も最近金銭感覚おかしくなってきたけど」

「でもこれくらい大盤振る舞いしないと使い切れない」

「それもそうなのよね」

 主人はチラッと奥を見る。繁盛するのはいいが、使う時間もあてもない。結果、一室を金庫部屋にしてとりあえず貯金してる。かなり不用心だと思うが、まあ強盗が来たところでマオがいるしどうということはない。

「金と言えば」

「?」

「行きがかり上ずっと俺が預かってるけど、あのじいさんから資金援助を受けてね」

「ああ、あの常連さん」

 俺は懐から例の袋を取り出す。

「そっちに渡しておこうか」

「いくら?」

 俺は袋の中身を見せる。

「純金貨一〇〇枚」

 実際は数枚使い込んだけど。

「おお、なんてことだ」

 こっちも気を失ってしまった。

「ほう。面白いことをやっておるな」

 振り返ると、件のじいさんが丼を眺めていた。当然のように開店前に入ってくるな。

「新しい器よ」

「ふむ。なるほど」

 器が老いても尚しっかりした手を転がる。

「『粋』だな」

「『粋』だろ」

「どれ。私もひとつ作ってもらおうか。して、この器を作ったものは誰だ」

「ああ、それなら」

 俺はちょうど鍛冶屋の娘を紹介した。すると老人は性懲りもなくべらぼうな報酬を提示して再度彼女を機能停止させた。数分後、アイル・ビー・バックしてきた彼女はどうにか老人との契約を成立させたのである。

 その後、このマイ丼がイガウコでブームとなり、鍛冶屋とは名ばかりのレベルで一大事業として成長することになるのだが、それはまた別のお話というやつである。

「よかったね」

「頭おかしくなりそう」

 そう言い残し、彼女はサンタクロースよろしくデカい袋を背負って帰っていった。

「マオ、念のために店まで送っていってくれ。襲われたらシャレにならん」

「わかりました」

 カモがネギどころか鍋からコンロから包丁までしょって歩いてるようなもんだ。

 歩く金庫を追っていくマオを見送った俺もまた、帰ろうとし、

「そろそろ新しい料理の一つでもできた頃と思ったのだがな」

 じいさんに捕まった。

「そこはまあ、主人の采配というかなんというか」

 そこで主人に二人の目は集中する。

「毎日忙しくて、とてもそんな余裕は」

「ガンバ☆」

 俺はそれだけ言って逃げる。

【しゅじん の て が かた を つかんだ】

 が、ダメ……!

「別メニューってのはよく勘違いされがちだが、まったく新しいものを作るのは厳禁だ」

 逃走失敗した俺はしかたがないので厨房に立つ。だてに料理関連の古文書も翻訳していない。そっち方面にはそれなりの知識はある。

「メニューへの追加には、『増減・変換・分断』――この三大要素が鉄則だ」

 俺はいつもより大きめの器を置く。

「まず増減。これはわかりやすい」

 いつもより多めに飯を盛り、そこに二枚の揚げ物、それらをすっぽり覆う『あん』。

「これで『大盛りのざわな丼』完成。さらにボリューミーになって食いしん坊も万歳」

「ふむふむ」

 主人はうなずいてメモをする。

「段階を設ければ『メガ盛りのざわな丼』・『キングのざわな丼』といくらでも作れる。逆に量を減らして『ハーフサイズのざわな丼』、『お子様のざわな丼』といった調節もできる」

「客としても、足りぬと思ってもさらに頼むのは気が引けるというものだからな。食いきれぬ量を頼むという逆も然り」

 早速モグモグしてるじいさんをそのままに次へ。

「分断も簡単な方だ」

 俺は鳥の揚げ物だけを皿にのせる。

「のざわな丼を構成する部分を一品として出す。俺の故郷ではこれをチキンカツと呼んだ」

「これだけでも美味しいものね」

 そういえば主人に最初に試食させたのはこれだったか。

「最後に変換だが、これは完成度の高い料理には通用しない。いじりようがない。無理にいじって質を損なうくらいなら最初からやらない方がいい」

 俺は飯と卵を混ぜ合わせる。

「ので、のざわな丼の一個手前で変換する。米と、チキンカツに使う卵を炒める」

「炒める……」

「油を引いた片手鍋で焦げないようにかき回して焼く、みたいな」

「そういうのもあるのね」

「あるのだよ。そうして炒めた飯をチャーハンと呼び、これに『あん』をかけると」

「あんかけチャーハン?」

「そゆこと」

 俺はうなずいて老人に次の料理を渡す。

「うむ。素朴な味だ」

 評論家は一口目にそうコメント。

「しかしチキンカツを排したために味の主張は落ちたと感じる。具材を加えるか調味料を濃い目にしてようやく一本立ちと言えよう」

 二口目でしっかりダメ出し。

「基本的な型としてはこうだ。値段含めて、あとは試行錯誤して作り上げていけばいい。自分の店なんだから」

「まったく新しいものを作るのはダメって言うのは?」

「それって仕入れから調理までまったく独立した料理ってことだからね。ラインを増やすことになる。たしかに売りが増えることはいいことだが、その分の手間が倍増するというコストと、仕入れた食材が無駄になるリスクを抱えることになる。経営難で無思慮にあれもこれもと手を出すのは、無駄な支出を増加させるだけで結局寿命を縮める行為ということだ」

 まあ今の経営状況ならそれくらいの投資はやっても構わないけど。そのタネがないからな。主人も新メニューに思うところはないようだし。

「ありがとう。おかげで色々わかった。やっぱり何か報酬を」

「いらないって。今まで通りタダ飯と残り物でいいよ」

「でもマオちゃんだって働いてもらってるし……」

「そっちのギャラはあいつと相談してくれ」

 多分、あいつもいらないって断るだろうけど。

 それから、主人はとりあえずといった風で新メニューの開発を始めた。開店まではまだ結構あるが、すでに店の前には人の影がちらほら。開店待ちまで出てくるとは。以前の廃墟一歩手前の[のざわな]とは大違いだ。

「こんちわーっす」

 裏口から運送屋がやってきた。

「これ、今日の仕入代金ね。物は倉庫に入れといたから」

「おつかれ」

 俺はレジ替わりの小袋から何枚か取り出す。六種類の小袋を用意しておいて、収支に対応する格好だ。そういや今後はメニューが増えるのだから、別の値段のものも増えることになる。会計ミスが発生しかねないことをマオに言っておかねば。

「たしかに」

 請求書と領収書に目を通した男は、「ちょいと相談があるんだが」

「うちの得意先に今まで教団本部に食材を卸していたところがあってね」

「ほうほう」

「それが今やあれだろ? 完全に発注が途絶えてんだよ。作ってるところは教団本部専用でやってたから大打撃でさ。運んでる俺の方はこうやって贔屓先替えれたからいいけどさ。こりゃもう畑つぶして宗旨替えか最悪首吊るか、みたいな状況なんだよ」

「うちでそれ仕入れろって?」

「実は他の老舗の飯屋にも話は振ったんだが、どこも使い道がわからないってんで門前払い。ここが心機一転したばっかりで、新しいことに手を出したくないってのはわかってるんだが、ほかにあてがなくてさ」

 運送屋は懐から袋を取り出し、中を俺に見せる。

 そこに納まっているのは白い粉だ。

 粉……?

 俺はそこに指を入れて口に運ぶ。

 ペロッ。

 これは……

「どうかな?」

「……そしたらとりあえず、ダブついてるのはうちで引き取るわ。それで当座はしのげるでしょ」

「恩に着るよ」

 教団本部ってことは総教皇が欲した食材で、要するに総教皇が食べたいもので、そこから調べればおのずと答えにたどり着く。さすがの総教皇も、この世界での食事には苦慮したと見える。

 正直これが[のざわな]のメニュー入りできるかは博打に近い。ただ、成功すれば俺の食生活が豊かになるのは間違いなしだ。

 こういう実験が気軽にできるのも、俺が報酬を断ってる理由だったりする。金をもらってないから気兼ねなく試せるし、向こうも金を払っていないから文句もそうはないだろう。

「で、今なにしてんの?」

「新しく出す料理の試作」

「へー」

「ついでに食っていきなよ」

「そうさせてもらうかな」と運送屋は厨房の奥から客席に回り――――、

「おお、これは。また会いましたな」

 あの老人とエンカウントした。

「……ども」

 運送屋は目をそらして軽く頭を下げる。

「せっかくの料理も一人ではいささか味気がない。ここはひとつ卓を囲んで意見交換とでもいきませんか」

「はぁ……」

 老人の申し出に押し切られるように、運送屋は対面に座る。

「この『チキンカツ』というのが中々の一品でしたな」

「なるほど。これ単品で出すのか」

 サクサクという小気味いい音が響く。

「これ一品でもうまいけど、飯が欲しくなるね」

「同感ですな」と老人は続く。

「炊いた飯をつけると納まりがいいのでは」

「そこに汁物もつけてワンセットでもいけるね」

 運送屋は老人に何か思うところというか、負い目があるようだが、こと食に関しては意気投合しているようだ。

「あの二人の意見は参考になるから、あとでまとめておくといいよ」

 俺の言葉に試作に集中している主人はうなずく。

「ただいま戻りました」

 エスコートを終えたマオにいくつかの引継ぎと指導をしてから、俺は帰路についた。

 うまくいくといいけど。

 俺の手にある粉のつまった袋が風に揺れた。

 その後、この粉を見かけたどこぞのギャルが麻薬だの青酸カリだの騒ぐ顛末てんまつは、至極しごくどうでもいいので記されぬ物語である。

(第5章)

「うーん」

 筆者はデスクの上に散乱する資料の前で腕を組み天井を仰いでいた。

「ちゅーっす」

 すると隣の席に不真面目な同僚が腰かけた。ずいぶん遅い出勤である。

「なに、まだやってんの」

「まとまらないんだよ」

 筆者の机の上をのぞき込んだ彼は自身の顎をなで、無精ぶしょうひげをじょりじょりと鳴らした。

七英雄伝しちえいゆうでんねぇ。うちの一大企画にするって息巻いててこれだよ」

「目玉にするレベルのモノだとは自負してるよ。ただ……」

 編集長に渡す予定の進捗報告書を彼に渡す。

「剣の章が恐ろしく進んでないな」

「かの英雄の偉業がどれがどれだかわからないんだよ」

「あー」

 彼は納得したように書類を返し、ドカッと席に戻った。

「まず歴史の表舞台に現れたのが『ヨハネス・ブ・ルーグの乱』。ここが出発点」

「それにも諸説あったろう。アルティ・マークス・ルーグのネガキャンや聞き違い、教団の敵対勢力によるプロパガンダか、あるいは総教皇暗殺のカバーストーリー……」

「そこ否定したら起始剣きしけんの流れが追えないぞ」

「まあそうなんだがな」

 同僚は椅子に体をあずけて背もたれを揺らす。

「それ以降、ヨハネス・ブ・ルーグの活躍は残されていない。これ以後に様々な人間が、政治・経済・文化に多大な影響をおよぼしている。そのどれかが剣の英雄の偉業であり」

「その全部が無関係な偉業かもしれない」

 筆者はその言葉に苦々しくうなずいた。

「それにも一説あったよな。剣の英雄は一人じゃなくて、多数の人間が剣の英雄という役割を演じ、その偶像を作り上げたって。意図的にそうしたのか結果的にそうなったかはおいといて」

「そうなると一個人の英雄譚えいゆうたんとしては成立しなくなる。まず一個人として特定しないと……」

「で、そこで詰まってると」

「悪かったな」

「別にいいけどさ。怒られるの俺じゃないし」

 筆者は意図せずため息を吐いていた。この案件を取りまとめられたら、記者冥利に尽きるであろう。おそらくは、一生モノのキャリアだ。しかしできなければ、途方もない時間をドブに捨てた無能の烙印らくいんをおされることになる。そうなると、今後の出世どころか会社にいられるかどうかすらわからない。

「最大の謎は、一個人という前提として、なぜここまで偽名を多用したのか。何かの隠蔽工作か。しかしなんのために」

「なにかあるたびに適当に名乗ってるだけじゃねえの」

「そんなまさか」

 しかし、そうだとするなら、それはそれで辻褄つじつまは合うのだ。けれども、本当にそんな浅はかな理由なのだろうか。かの英雄の偉業をたどると、そこには綿密な計画や卓越たくえつした慧眼けいがんがあるのだが。まさかそれが全部行き当たりばったりであるはずが……

 うーん……

「悩むのもいいけどよ、そろそろ出ないとまずいんじゃねえの」

 筆者は時計を見て、慌てて立ち上がる。

「悪い。編集長が来たらさっきの報告書を渡しておいてくれ」

「いいけどさ。今日はどこだっけ」

「この前の人間国宝のとこだよ。そこにも剣の英雄が関係してるらしい」

「本当に関係していたらいいな」

 その激励か皮肉かつかない同僚の言葉を背に、筆者は取材先へ向かうのであった。

◆◆◆

「ツチヤくん、あのね」

 拝啓みなさま。お元気でしょうか。

 僕は今、重大な局面に立たされています。

 僕しかいない事務所で書類整理をしていると、意中の相手が訪ねてきたのです。彼女は鍛冶屋の娘で、僕の幼馴染です。

 こんなことは初めてだったので、内心テンパりつつも余裕のある風で彼女を応接スペースに案内しました。

「う、うん。どうしたの」

 安いソファーに腰かけてもらうのは恐縮だが、これがうちでは最高級の椅子なのです。

 あ、お茶。あ、うちにそんなものなかった……

「ツチヤくんにね、お願いがあるの」

 来たか!

 僕は驚愕と感動を一緒にしました。

 そう、みなさまももうお気づきでしょうが、僕は彼女に恋してます。正直今すぐにでも結婚したいです。しかし僕はまだまだ半人前で、事務所も今となっては僕が書類上の段取りをしているだけで、実質的な業務は別の組の下請けです。懇意こんいにしてくれている親方が回してくれた仕事を受注し、それを知り合いの大工に回してるだけです。たまに僕自身も現場に出ますが、これといった熟練度もないのでほとんど雑務です。これでどの面下げて彼女はもちろん、彼女のお父さんに挨拶できるでしょうか。

 とまあ、そんなわけで、こんな半端な状態で求婚できるわけもなく、ズルズルやっているのが現状です。

「お願いって、なにかな」

 しかし逆転の一手はあるのです。僕からは言えませんが、彼女から求婚されるのは――――それは、しょうがないことなのです。断るのも男が廃るというか、それなら負い目もないし万々歳というか。

 つまりこれは、そういうことなのでしょう。

 自分と結婚してほしい、と。

「えっとね」

 心の中でガッツポーズを連発してる僕の前で、彼女は言い淀みます。そりゃ言いづらいでしょう。一世一代の告白なのですから。

 期待感最高潮で彼女の言葉を待つ僕。

「こういうことは初めてで……」

 彼女は自分の首元をつかみ、そこから胸にかけて手を伸ばします。

 え!

 これはさすがに僕も予想外です。そりゃもちろん、将来的にはそういうことをするとは思っていましたが、さすがに夫婦になる前にそういうことは。

 いや、嫌ではないんですけどね。

 婚前交渉の是非に思いをはせる僕に対し、彼女は小さな袋を取り出しました。チャリンチャリン鳴っていることから、どうやら、お財布代わりのそれを首からさげていたようです。

「これで私のお店を作ってほしいの」

 しめて合金貨八枚。

 手付金ということで、僕はそんな依頼をされた。

「それでうちに発注かけたいって?」

 休憩時間中、一服を入れている親方に僕は頭を下げた。

「よろしくお願いします」

「それはいいんだけどよ」

 親方は休憩所も兼ねた仮設事務所の天井を見上げる。

「そういう内輪なら、身内でやってもバチは当たらないんじゃないか」

「いや、身内って」

 実質僕しかいない組でどうしろと。

「キノシロがいるじゃねえか」

「いっつもいないんですよ。それに、父が大工仕事やってるところなんて見たことないですよ。頼りになるんですか?」

 なにかと父の名前が出されるが、僕からすればいっつもどこかへフラフラしていて、まともに働いたところを見たことがない。やる気どうこうより前に、そもそも能力があるのかさえ疑わしい。

 すると親方は納得したように息をもらす。

「ああ、そっか。そういやあいつがああなったのはツチヤが物心つく前か」

「腕がいいとは皆言いますけどね、あれのどこが?ってのが正直な話ですよ」

「あれでも昔は天下一の大工と誰もが認めてたんだぞ。あの頃のキノシロ組はうちよりずっとデカくて、というか、あいつがああなったから大部分を俺が引き受けて今のこの組があるわけで」

 かつてのキノシロ組は、棟梁のキノシロの腕に惚れ込んだ大工たちが殺到して一大勢力になっていたと聞く。まるでそれだけでひとつのギルドであったような規模だったそうだ。キノシロ組だけで町ができるレベルであったとか。今となっては眉唾であるが。

「それがなんでこんなことに」

「まあ、あれはしゃーないわ」

「はぁ」

 いったい何がしょうがないのだろうか。

「それもあるし、もう普通の建築じゃつまらんのだろうな。ただ使い古された技術と仕様を繰り返すだけの毎日じゃ、あいつは満足できないんだろうさ」

「はぁ」

 まあ、飽きるっていうのはあるのだろうが。やることなすこといつも通りで、すっかり慣れ切ったというか。僕としては毎日が勉強で、とてもそんな心境には到達できていないが。

「とりあえず、発注の話はいったん預かる。そんな急ぐ話じゃないんだろ?」

「そこまで急かされてはいませんが、しかし……」

「まあ、話すだけ話してみな。キノシロの尻を叩けるやつなんざ、今となっちゃツチヤくらいなんだからさ」

「前は他にいたんですか?」

「ああ、俺が知る限り、キノシロを本気にさせたのはあいつくらいだな」

「どんな人なんですか」

「それはキノシロから直接聞くのが筋だな。まあ、あいつは話したがらないだろうが」

 妙に歯切れが悪いな。

 親方は「それはそうと」

「しっかし若人衆わこうどしゅうでまさかあの子が頭一つ抜けるとはな。大穴というか大出世というか」

 陶芸で一山あてた彼女のことだろう。

「同世代としては鼻が高いだろ。ひょっとしたら歴史に名を残すような偉大な」

「それじゃ困るんですよ」

「え?」

 話をさえぎられた親方は不思議そうに首をひねった。

「…………それは、よかったんじゃねえの?」

「よくないです!」

 テーブルに底を叩かれた杯がダンッと音を立てます。対面の彼は隣の女性と顔を見合わせます。

 時は少し流れてその日の夕刻、場所は行きつけの酒場『ファミリーバンチ』。僕は彼に相談してもらっていたのです。

「いつの間にか彼女はお金持ちで、専用の工房をほしいと言ってきたんですよ!」

「いや、だから、それはよかったんじゃないかって……なあ?」

「んー……」コンサルタントに話を振られた彼女は、不自然なまでに彩った爪で自分の頭をかきます。

「あれだろ? 自分が養える立場になってからアタックしようと思ったら、向こうが逆にそういうポジになって立つ瀬がなくなったぁみたいな」

「そうです! そのとおり!」

 女性は――たしかミツルと呼ばれていた――自分の前の水が入った器を口にする。

「なんつうかさ。そういう男子の心理?っての、バカっぽいというか、バカを見るんじゃねーの」

「そうは思っても捨てられないのが男子の心理なのさ」

 ぽつりと彼は言う。

「好きなら好きって言やーいいじゃん。そんなチンタラやってたら他の男とイイカンジになるんじゃねーの」

「でも今の僕じゃ」

 告白したところで結局。

「なにそれヨボーセンってやつ? フラれるかもってビビってんの?」

 女性の辛辣かつ的確な発言に泣きたくなりました。

「遊びならともかく、本命ならそりゃ入念な下準備くらいはするだろうさ」

 彼は僕の肩を持ってくれるが、それでも彼女の言葉は否定しませんでした。

「金があるとか偉いとか、そんなんどーでもいいんだよ。なんでそれまで待ってくれると思ってんの? つーか受け身? ウジウジしてキモイってーの」

「そこまで言わんでも」

 彼は卓上の串焼きに手をのばし、一度噛んで苦い顔をしました。[のざわな]の味を知った僕も、最近はここいらの料理には不満を覚えるようになりました。

「それで、何も愚痴を聞いてほしいだけってわけじゃないんだろ?」

 彼に促されて、僕は再度酒をあおりました。

「僕に仕事をください」

「いや、もうあるよね」

「よその下請けじゃなくて、もっとドカンと儲かって、すごくクリエイティブで独創的な仕事を」

 そうすれば彼女も僕のことを……

「それ、人に頼んでめぐんでもらうことじゃなくね?」

 ミツルさんの呆れた顔。

「自分でどうにか見つけて成り上がるならわかるけど」

 返す言葉もない。

 が。

「でも他に手はないじゃないですか」

「いやソッコーで告れよ。どんだけ足踏みしてんだよ」

 二人で話してる横で、彼は腕組みをして「うーん」と唸る。

 やがて、

「あるっちゃある」

「本当ですか!」

「あるが……うまくいく保証というか見込みが取れん」

「それでもいいんです」

 僕は勢いよく食いついた。

「たとえ少ない可能性でも、それに賭けてみたいんです」

「だったらチョクで言えっての。なんで回りくどい方向にだけアグレッシブ」

 嫌味のような小言のようなものを聞き流しつつ、僕は彼の話に耳を傾けた。

『数日後に、いくつか本を渡す。その前に、まず紹介状を用意するから、エマスラに行ってくれ』

 そう言われた翌日、僕は今、エマスラという街に来ていた。この大陸でもかなり外れのところで、こんな田舎町に何があるというのだろうか。あ、ここまではマオさんの転移魔法で送ってもらいました。

「こちらです」

「あ、はい」

 マオさんに促されて僕は初めて来た町を歩く。こんな街にいったい何があるというのだろうか。それにしてもマオさんは転移魔法まで使えるのか。すごいな。

 マオさんは明るくてかわいい女の子だ。最近、コンサルタントの彼と一緒にイガウコに移り住んできたようだ。彼とはいったいどんな関係なんだろう。ミツルさんはともかく――僕、気になります。

「つきました」

 言われた僕は、目の前のものを仰ぐ。

「ははぁ……」

 彼がここに行けといった理由がわかった。

 そこには、奇妙な建築物があった。

 なんといったらいいだろうか。上から下まで、今まで僕が携わってきたものとは別の何かが作られていた。

 かこーん。

 あの竹の筒が水で動いてるのはなんだろう。なんの意味があるのだろうか。

「ごめんください」

 呆けている僕をそのままに、マオさんはがらら、と戸を開いた。すると奥から変わった服を着た人がやってきた。

「はい、ただいま……あら」

「ご無沙汰しています」

 マオさんとこの人は知り合いのようで、二人は再会を喜んでいるようだった。

「久しぶりねー。あのあとトルカで騒ぎがあったって聞いて、巻き込まれていないか心配していたの。大丈夫だった?」

「ええ。なんとかなりました。それで今日は、ちょっと会わせたい人がいまして」

 紹介された僕は背筋を伸ばして、紹介状を渡した。

「これはご丁寧に。……そうなの。そうしたら、立ち話もなんだし、ちょっとお茶でも飲んでいきなさい」

 そう促されたので、僕らはここの敷居をまたぐこととなった。

「ここは……なんです?」

「宿です」

 マオさんに教えられても、まだピンとこない。

「宿、ここが」

 き出しの廊下を歩きつつ、上下左右を見る。

「最近はぽつぽつ客も増えてね。だいたいは科学者関係か好奇心で来る人ばかりだけど。昔よりはずっといいわ」

 先頭を行く女性――女将というらしい――の楽しそうな声。

「これもヨハネス・ブ・ルーグ様様さまさまかしらね」

「教団の影響が以前より希薄になった、ということでしょうね」

 二人の会話に、僕も思い出す。

 もう一週間以上前になるだろうか。

 かつて、一つの宗教で人の心はまとめられていた。良くも悪くも、それがみんなの共通の正義であった。

 しかし、それもつい最近終わった。

 教団を束ねる総教皇がヨハネス・ブ・ルーグなる者に討たれたのだ。それだけなら、ただの謀反や暗殺といって片付けられそうな話だが、民衆に流れる噂では、かのルーグは無実の罪で処刑されようとしていた少女を単身裸一貫で大立ち回りし、見事救い出したというのだ。まるでおとぎ話のような活躍に、皆はその男を英雄と讃えた。

 ヨハネス・ブ・ルーグの正体は現在まで不明で、容貌すら人の間を行きかう噂が折り重なって判然としていない。甲冑を着込んだ騎士であったとか、成人男性を縦に三人並べたような巨人であったとか。はたまた見目麗しい美男子だったという目撃談もあったりする。

 その結果、今となってはヨハネス・ブ・ルーグの名前だけが独り歩きし、曖昧模糊で多種多様な英雄像が出来上がっている。これでは正体などわかりようがないし、たとえ僕がすでに会っていたとしても、その人物が教団崩壊の張本人とはわからないだろう。

 そんなこんなで、トモノヒ教は総教皇の死去で求心力を失う。同時に教団の不正や腐敗――ありとあらゆる不満が爆発する契機となってしまい、各地の教会や聖職者の地位は失墜している。教会が襲撃されたり、神父様が迫害されてるなんて話もあるくらいだ。

 そして現在、教団関係各所のみならず、それに呼応するかのごとく、この世は不安定な方へ進んでいる……ような気がする。

「ええと、つまりこの宿は教団では禁止されていた代物……みたいな?」

「そういうことです」

 ガラリと引き戸(フスマというらしい)が開かれ、広い部屋に出た。

「ここに泊まったのは相変わらずあなたたちだけだけどね」

「一番高いですからね」

 いわゆる最高級の部屋というやつらしい。

「それじゃ、ちょっと座って待ってて」とフスマの奥に消えていく女将。僕らはとりあえずといった流れで変わったクッションに腰かける。

「床に座るんですね」

「このザブドンというものを敷いて座るんです」

「ははぁ」

 僕は板の床を軽く手でさする。

 既存の技術を熟知しているレベルでない僕が言うのもなんだが、ここは既存の技術とはあまりにかけ離れている。今まで培われてきた技という木の先に伸びる枝というのではなく、完全に別の技術体系、まったく別のところで芽生えて成長していった知恵だ。

 これがいわゆる異端技術なのは異論の余地がない。

 しかし――――

 いったい誰が、どうやってここまで形にしたのだろう。

「おまたせ」

 お茶を持ってやってきた女将は、僕たちの前にある足の低いテーブルにそれを置き、テーブルをはさんで向かいに座った。

「どれどれ」

 女将は紹介状を開き、中の文面に目を通す。少ししてから、僕へ顔を上げる。

「まず、この旅館が異端技術というのは説明しなくてもいいわね」

「はい」

「私の夫は科学者でね。異端技術の研究を独自にやっているの」

「科学者、ですか」

 どうやら異端技術を研究する者をそう呼ぶらしい。

「もっぱら地中の遺跡・遺物を発掘して当時のものを復元・再現するのが活動ね」

「あんまり詳しくないですけど、そういうのって考古学者とか、歴史学者って言いませんか?」

「それなんだけどね。この旅館を見ればわかるけど、明らかに私たちの歴史から地続きのものじゃないでしょ?」

「それは、もう」

「そうしたら、既存の考古学や歴史学とぶつかっちゃうわけじゃない? 将来的には統合されるにしても、しばらくは別の名前で区別する必要があるのよ。そこで、異端技術を科学と呼び、専門家は科学者と名乗ることになったのよ。誰かさんの受け売りだけどね」

「そういうことですか」

 僕は、このあと彼に渡されるであろう本に思いをはせる。多分、科学の本だろう。もっと言えば、異端技術による建築の本だ。きっとそれを収益化する……って絵なんだろうな。たしかに儲かるかどうかはわからない。商売とは、依頼があって成立するものだ。需要のない建築の依頼など来るはずがない。それでは金にならない。単なる道楽だ。

 ただの道楽に他人を巻き込むわけにはいかない。相手に分け前を与えられない以上、そんなものはただの自己満足だ。彼が渋ったのも無理はない。

 僕だって、金にならない建築の案件なんて他人に相談すらしないだろう。仮にそれに興味があったとしても、人知れず一人で試行錯誤しているはずだ。

「それで、この旅館がどうやって建てられたか、だけど」

「いったいどなたが」

 本題。おそらく彼が僕をこの宿によこした理由がそこだろう。知識があっても、それを実行するには相応の技能が要求される。専門書を読んで、それをその通りにできれば誰も苦労も努力もしない。

 異端技術を理解したうえで、それを再現した人物がいる。

 僕が女将にその人物を紹介してもらう。その後、僕がその人に教えを乞う。そしてその建築技術をマスターすればゆくゆくは……

 いったいどんな人なんだろうか。まったくの手探りからここまで形にできるとは。さぞかし卓越した技術の持ち主なのだろう。ひょっとしたら、後の歴史に名を残すような大天才なのかもしれない。

「教えるのは簡単なんだけど……」

 女将は困ったような顔をする。

「どこまで教えたものか」

 僕の顔をじっと見る。そして紹介状に再び目を落とす。

「あの人の……なのよね、きっと」

「あの……」

「そうよね。あの人は自分のことをペラペラ喋る人じゃないし……このままじゃ、ずっとすれ違いよ。そんなの死んだあの子も望んでないだろうし……」

 戸惑う僕に、女将は意を決したように、

「あなたもそろそろ知ってもいい頃でしょう。あなたには知る権利があるし、そのうえでこれからを決める方がきっと」

「はぁ」

 何かを察したのか、マオさんが無言で退室する。

 それから語られた話は、たしかに本人は絶対に僕に話さないと断言できたし、知れたおかげで僕なりの努力の方向性というものが見えてきた気がする。

 ――――昔、あるところに若い大工がいた。

 その大工は家業を継ぐべく多分に漏れず見習いから始めたわけだが、すでにそのころから非凡な才能を見せ始め、めきめきと頭角を現していった。工具を触ったばかりにも関わらず、下働きの間に見ただけで熟練の職人の技をわがものとし、これといった師もなくあっさり独立した。それだけに及ばず、既存の技術をさらに発展させ、現代の建築の基礎を構築していった。その名と腕は王の耳にも入り、まったくの部外者ながら王都の宮殿の建設を主導した。

 そんな名工であったが、色恋沙汰はからっきしだった。

 彼には幼馴染があったが、これといって浮いた話がなかった。彼は何度か想いを告げようとしたが、そのたびに『あれを達成したら』『これを完遂してから』と逃げていた。それも王宮竣工でいよいよ逃げ道がなくなり、求婚しようとした時であった。

 幼馴染の女性が、とある本を持ってきたのだ。その本には未知の建造物がたくさん載っており、とても現在の技術では再現できないものだった。

 彼女はそのうちの一つを指さし、『これを建てられるか』と問うた。男はその場で出来るとは言えなかった。いかに天才といえど、まったく別種の技術や素材で構築された建物を再現できるはずもない。どんなに小さくても、とっかかりが必要であった。

 彼女はさらにこう言った。

『もしこんな立派な城を建てられる大工さんがいるなら、私はそんな人の妻になりたい』

 男は観念したように深く息を吐いた。

『建ててやるから、結婚しろ』

 売り言葉に買い言葉であった。

 その後、二人は夫婦となり、子供ができた。妻の方は先に逝き、ついぞその城を見ることは叶わなかった。けれど夫の方は、今もその城を作ろうと各地の遺跡を探索し、技術の探求と吸収に明け暮れているそうな。

「まだ起きていたのか」

 すっかり暮れた夜、父が家に帰ってきた。

「どこ行ってたんだよ」

「あー……酒飲んでたんだよ」

「どこの遺跡に行っていたんだよ」

「なんだ知ったのか」

 親方はやれやれといった具合に腰かける。

「ずっと遊び惚けているフリをして、ずっと異端の建築秘術を探っていたんだろ」

「まだ果たしていない誓いがある」

「言ってくれれば」

 そうすれば、理解することだって、もっと言えば手伝うことだってできた。僕だけじゃない。ほかの人たちだって。組だって、こんな寂れることはなかったろう。

「なんでセガレにカカアとの馴れ初めを語らにゃならん」

 気恥ずかしさでもあったのか、父は視線を天井に泳がせた。

「あいつは産んだお前を抱いて満足そうに逝った。だが俺はまだあいつとの約束を守れていない。俺も向こうに行く前に、あの城をこの世に遺しておく。そうしてはじめて死ねる。もう親子二人が死ぬまで食える程度の蓄えはある。組なんて文字通りお前の遊び道具だ。これからも好きにやればいい」

「僕も手伝うよ」

「これは俺とあいつの誓いだ。勝手に乗っかってくるんじゃねえ。大工としてはともかく、人としてはいっぱしに育てたつもりだ。これ以上、親としてああだこうだ言われる筋合いはねえ」

 つまり、だ、

 父は母との約束を守るために異端技術が眠る各地を回り、手探りで現地の科学者と協力して再現し、最終目標である城とやらを建てるために活動しているのだ。そりゃ、通常の大工の仕事なんてしてる余裕も興味もないだろうな。口にも顔にも出さないが、多分、この人は未知の建築技術に興味津々なのだと思う。母との約束抜きにしても、一大工として。新しいおもちゃを目の前にした子供のように、わくわくしているのだろう。それを子供の僕が問うても、素直に答えることはないだろうが。

「エマスラのあれは失敗だった。完全には再現できなかった。けれど宿として使う以上、既存の技術でつぎはぎをしてでも完成に持っていくしかなかった」

「ああ、それは気づいたよ」

「イガウコのあれは最後の詰めがわからずじまい。あれ以上は古文書が読めないとどうしようもないな」

「その古文書が翻訳されていて、僕の手元にあるとしたら?」

「……何が望みだ」

「僕も一枚かませてよ」

「お前な。親子の縁だの義理だのは求めてねえぞ」

 面倒そうな顔をする父に僕は、

「いや、あの。城を建てられたなら……その」

 目をあっちへこっちへ動かす。

「好きな子に告白できるかな……って」

 父は呆れたように口をあんぐりと開けた。

「お前まだあの鍛冶屋の娘とくっついてないの?」

「まだその時ではないというか、もう少し実績というか……自信?」

「腰抜け……」

 あんたにだけは言われたくないよ。どう見ても父親譲りの気質だよ。

「これのこれなんだがな」

 後日、事務所にいくつかの本を持ってきたコンサルタントに、父は古ぼけた本を開いた。よほど読み込んだのか年季が入っているのか、表紙から中身までボロボロだ。

「ああ、『城』ってこれ……」

 そこに記載された挿絵と文章に彼は難儀そうに目を細める。

「知ってるんですか?」

「実物は見たことないんだけど、俺の前いたところじゃ有名だよ。昔の王様が天下統一の一歩手前で建てて、夢半ばで燃え尽きた王様のあとを追うように燃えちゃった城。だから完成してから数年の間しか現存していなかったわけ。実物の姿を正確に伝えた資料すらほとんど残っちゃいない」

「それじゃ」

 無理じゃないですか。

 僕がそういう前に、彼は、

「まあ、散逸した資料を片っ端からかき集めれば、どうにか形になるんじゃないか。そこから先の――当時の大工の思考や工夫を理解するのは、あんたらの領分じゃないかね。足りない部分はそれで埋めてみせな」

「ああ、うまくやる」

 事もなげに父は言った。こんな自信はまだ僕にはない。……いや、そのうちつくのだろうか、本当に。

 うーん。

 まあ、城を建てればなんとかなるさ。

 きっと。

 多分……

「それにしてもひっどいなこれ。もう中身まで侵食しかかってるじゃん。そのうち読めなくなるぞ」

「何度も読み返したし大昔のもんだしな」

「これちょっと預かっていい? 写本係に回すわ。あとでこれと写本をセットで渡すからさ」

「おう、わりいな」

 なるほど写本か。古くなって読めなくなる前に新しい本へ書き写せばいつまでも残せるわけだ。彼にはそういうツテがあるらしい。

「こっちも異端技術が試せる現場あったら話は回すからさ、それまでに持ってきた本で予習しといてよ」

「任せとけ」

「ほな、さいなら」

 父から預かった本を抱えて彼は去っていった。置いていった本のギャラを払おうとしたが、いらんと言われた。

「貸しの一つにされたな」

 父は受け取った本をパラパラめくる。

「下手をすると金を払うより高くつくかもな」

「でも後悔はないんだろ」

「まあな」

 こんな文献、今まではいくら金を出しても手に入らなかったろう。それが手に入るなら、これからいくらを要求されても本望というやつだろう。

「ごめんください」

 入れ替わるように、彼女が入ってきた。僕の嫁(予定)である。

「よう」

「あ、ご無沙汰してます」

 軽く手を上げた父に、彼女はぺこりと頭を下げる。

「新しく工房建てるんだってな」

「はい。今のところじゃ手狭になってきたので」

「本業が閑古鳥のわりに景気のいいこった。あの親父もいい面の皮だろうよ」

「あんまり気にしてないみたいですけどね」

「昔はあいつに色々無理いって細工物さいくもの作らせたんだがな。それに嫌気がさして鍛冶一筋で始めたんだが、てんで流行ってねえでやんの」

「そうなんですか」

「王宮の装飾はたいがいあいつの仕事だよ。既存のものを模倣するしかない俺と違って、あれこそ追随不可能の芸術の極致だろうな。それを弟子もとらず後世に伝えもしない。もったいねえったらねえ」

「初耳です」

「父親なんて生き物は身内にべらべら手前のことなんざ喋らねえのさ」

 おかげで子供の方は余計な右往左往するはめになるんだよ。

 僕は口には出さず胸の内でぼやいた。

「それで建設案なんだけど」

 僕は卓上に地図を広げる。

「鍛冶屋の向かいの三軒がちょうど空き家になってるから、そこを丸ごと買い上げてまとめて一軒の工房に仕上げようと思うんだ」

「わあ」

 丸で囲った地点に僕の婚約者(願望)は目を落とす。

「その合筆ごうひつだと居抜きは難しいな」

 合筆とは、隣り合ってる土地をひとまとめにすることである。今回は三軒、つまり三つに分かれている土地を一つに合体させようということだ。

「無理につぎはぎしても継ぎ目に無理が来るから、建物は潰していったん更地にしようと思う」

「同感だな」

「そこで相談なんだけど」

 僕は彼女を見る。

「どういう動線どうせんや設備にしていくかは相談したうえで、設計や造形はこちらで全部やらせてほしい」

 実際に建物を使う際に人がどう動くかを想定して作っていくのが動線。これを考慮しなければ、使い勝手の悪い箱が出来上がるだけである。

 資料を仕入れた以上、実践でどう作用するのか検証するのが課題だった。今日の打合せは、その相談もセットだった。

「いいよ」

 あっさり了承してくれた。

「今までの建て方だと限界感じてたし。それにそっちの方が面白そう」

 これ求婚まではいかなくても告白すれば交際くらいいけるんじゃないだろうか。

 僕のほんのりした期待をよそに、父は「よっしゃ」と立ち上がる。

「そうと決まれば早速実践だ」

 ああ、棟梁がいつになくやる気だ。そしてこれはおそらく、僕の出番はそこまでない。

「お嬢ちゃん、現地確認するからついてきてくれ」

「わかりました」

「ついでに鍛冶屋でも冷やかしにいくか」

「わあ。父も喜ぶと思います」

 さっさと事務所を出ていく二人。あれ、これ僕忘れられてない?

 急いで資料をまとめて戸締りをする僕。

 ――――もし、いつか。

 僕は遠ざかる父と彼女の背中を追う。

 ――――城を建てて、父と肩を並べるくらいの大工になれたら。

 そしたら彼女も、きっと…………

 きっと……

 きっと……

 きっと…… 

 …………どうかな?

「…………私と彼の話はこれくらいでしょうか」

「なるほど。ありがとうございます」

 筆者はうなずく。

「なにか参考になりましたか?」

「ええ。助かります」

 今回、筆者が高名こうめいな陶芸家である彼女を訪ねたのは、人間国宝認定についてのインタビュー時に聞いた話が原因であった。彼女の陶芸話を聞いていると気になる点が浮かび上がり、その仔細を取材したというわけだ。

「当時はこの工房も珍しくて、見に来る人も多かったんですよ。そこで作った器を買ってもらったり……自分も作ってみたいって人も来たりして」

「それで陶芸教室を始めたわけですね」

 筆者は工房内を見回す。室内にはあくせくと土を練ったりろくろを回す者が大勢いた。

「今はもう最初の頃の生徒が指導役になって、私の出番はそんなにないんですけどね」

 彼女は苦笑する。陶芸の一流派の開祖として世間に認知された女性も、話してみれば普通の女性といったところ。局地的に陶芸という文化はいくつかあったが、ここまで体系化と収益化を確立したのは彼女が史上初であろう。その功績が評価され、一芸術家として人間国宝の認定を受けたというわけだ。

「話を戻しますと、あなたが陶芸家として活動するようになったのは、剣の英雄の支援あってのことである、と」

「うーん」

 すると彼女は腕を組んで首をかしげる。

「あの人がその剣の英雄かと問われると……」

「『そんな風には見えなかった』ですか?」

「ええ。とてもそういう戦ったりするような人とは」

「皆さんそう言うんですよね。まあ、それはおいといて、ここの建築周りのお話を聞かせていただきたくてですね」

「ああ、はい。用意しておきましたよ」

 彼女は引き出しから一通の封書を取り出す。人間国宝直筆の紹介状である。

「すみません。こうでもしないと取材のアポが取れなくて」

「多忙ですからね」

「それでは、私は早速行ってきますので」

「ええ。お気を付けて」

 工房の前で手を振る女性に筆者は深々と礼をし、その場をあとにした。

 目的の場所まではそう遠くはない。

 しかし、この暑さには参る。

 じりじりとした日光を恨めしげに仰ぐ。

 また、暑い夏が来る。

 ポケットから取り出したハンカチで額の汗を拭き、目的地へと急ぐ。はやく涼しい場所に逃げ込みたい。

 やがて目的地が目に入り、筆者は意図せずそれを見上げる。いつ見ても威容で立派な建物だ。

 先代のキノシロ社長は、この社屋しゃおく完成を契機に現役を引退し、会長職へ退いた。後任は子息であるツチヤ氏。取締役会でも満場一致の円満承継であったという。

 次の取材相手は、その新社長である。

 これが厄介で、通常の取材の申し出ではなかなか叶わない。本人が多忙ゆえに、長時間の応接ができないとのことだ。社長といっても涼しいオフィスでふんぞり返っているわけではなく、常に現場主義で社長室にいることが稀だという。仕事のほとんどは現場での作業や指揮監督、各地での講演や実技指導だそうだ。キノシロ氏が現場からいなくなった現在、この会社独自の建築技術をもっとも理解しているのはツチヤ氏であるのだから、しかたないといえばそれまでなのだろうが。

 先代社長のキノシロ氏が確立した新技術の建築は、当初は文字通り異端であったそうだが、今では流行の最先端という評価におさまった。何もそれは、あらゆる文化・文明を受け入れやすいイガウコの風土であったから、というわけではないだろう。利便性や合理性があったのもあるが、なにより――――

 そこには、未知への憧れと職人の夢がつまっていた。

 まあ、陳腐に言ってしまえばロマンというやつだ。

 かくいう筆者も、マイホームはこの会社から買っているのだ。

 筆者は改めて社屋を下から上へなぞるように見る。 

 城である。

 かといって従来の城ではない。

 そもそも城とは、言ってしまえば拠点である。政治的・軍事的な役目をもって作られた大規模な拠点。その点については従来のそれとは相違ない。

 問題はそのデザインだ。

 天守と呼ばれる特徴的な建造物を中心に、石垣という石で積み上げられた壁が周囲に張り巡らされている。一説にはこれが攻城対策になっているとかなんとか。

 ともかく、城壁や城門はまだわかるが、こういった諸々は従来の城にはなかったわけである。 

 社屋正門にいる警備員に社員証と紹介状を見せるとすんなり通してもらえた。その際に話をすると、新社長は幸運にも社内にいるので、ひょっとしたらこのままストレートに取材に応じてもらえるかもしれない、とのこと。そう祈ろう。

 城内に入った筆者は、長い石垣の道を眺めつつハンカチで首回りをぐるっと拭う。

 安土城あづちじょう

 この社屋のモデルになった城は、そう呼ばれていたらしい。

 いったいどうして再現しようと思ったのか。

 会うことが叶ったら、まずはそのあたりを聞こう。

 筆者は涼を求めるのもあって、誘われるように屋内に入っていった。

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