外伝 一人の英雄のありふれたあってはならぬ一つの英雄譚───伝説の戦士、語られぬ数多の屍敷かれた戦場へ帰還す 第六話
「親父!」
自分への心配に、エモヌは苦笑いする。まったく、久方ぶりの喧嘩だっていうのに、体がついてきやしない。
「そんなに騒ぐない」
もはや老骨といった具合の体にうんざりする。昔はこの程度、なんてことはなかったのだが。
ダラリと垂れた右腕に手をやる。出血そのものは深刻なものでもない。しかし、もう上がらない。
「片腕で、腕がなきゃ足が、歯が……それで傷の一つでも残せりゃ儲けものよ」
言うことを聞かない利き腕からこぼれた長ドスを左手で拾い上げ、くるりと回す。
痛手なのは自分だけじゃない。
組員だって半分はもう満足に喧嘩できる状態じゃない。死んで戦えないのと生きて戦えないのと、まあ色々で半減だ。
エモヌ組で戦えるのが一五人。
対して向こうが一二人。
数字の上ではこちらが優勢だが。
『NPCは回復できないんだから哀れだよな』
『回復されたらウザいだけだろ』
『違いない』
と、この有様だ。
回復魔法と――どういうカラクリかは知らんが――それと同等する道具を使って傷を治される。これではそういった手段がない陣営がジリ貧なのは必定。事実、最初は数と勢いで押していたエモヌ組が、じわじわと消耗戦で追い詰められている。
「親父、引き際でさ」
ハンザの奴らはとうに逃して義理は果たしている。若頭の進言に反論はない。
しかし、
「で、ケツまくってどこへ引こうって言うんだい。やっこさんら、この街全部食い物にする腹だろうが」
そこが問題であった。そこいらで起こる街中の取っ組み合いならトンズラもこける。けれどそれが街全体の危機となれば話は別だ。自分たちの帰る場所がなくなるのだから。
「他の街に逃げようにも、俺っちらみたいなはみ出しモンの居場所なんざありゃしねえのさ」
いわゆる異端認定されている自分たちは、よそのトモノヒ教影響下の街では確実に迫害される。このイガウコでしか生きる道はないのだ。
とすれば、
「なら親父だけでも」
「へっ。子分捨て石にするような頭なら、どのみちここでおっ死んだ方がマシでえ」
エモヌは血まみれの長ドスを握りなおし、天を向く。
「てめえら、ビクつくこたあねえ。この世でシノギをするか、あの世でシノギをするか、それだけの違いよ。ここで散ろうが、あの世でもう一花咲かそうじゃあねえか」
その言葉に全員、腹を決めたらしく、一様に構えた。全員玉砕覚悟、射られた矢のごとく――――
光が走った。
エモヌの目には、青い線が一瞬映った。その線は目の前の聖十字騎士団を結ぶように現れる。遅れて、連中の体からは血しぶきが上がった。どれも一縷の望みもない致命傷だ。
「なんだ」
組員の誰かがつぶやく。しかし答えを持っている者などいるはずもない。ただわかるのは、
「助かった……のか?」
自分たちは九死に一生を得た。
その事実だけだ。
◆◆◆
聖十字騎士団の目的が略奪である以上、襲撃される場所は自然と限定される。略奪対象である物資がある商店街が主だ。
そこで展開される冒険家による防戦も限界だった。
その商店街では逃げ遅れた住民がまだおり、彼らを逃がそうとした冒険家が次々と命を落としていた。
残存する聖十字騎士団・イガウコ冒険家はその場所に結集し、総力戦の様相を呈していた。
戦況は冒険家が圧倒的な劣勢であった。主戦力は下位ギルドに移り、その強さは上位層とは比べるまでもない。ただでさえトップギルドですら苦戦した相手では、時間稼ぎもおぼつかない。対する騎士団員は、その力量差に加えて回復手段の恩恵がある。
どちらが勝つかなど、火を見るより明らかであった。
それでも冒険家たちは、諦めなかった。
自分たちの力が遠く及ばないことなど、戦う前から百も承知であった。
それでも街と住民のために死地へ赴いたのだ。
その冒険家もまた、その一人だった。
「もう、だめなのか」
頭から血が流れるのもそのままに、男は目の前の惨状を眺める。自分たちのギルドは、自分以外を残してみんな死んだ。残りのギルドだって、もう満足に戦えない。しかしここを抜かれれば、イガウコは完全に無防備になる。自分たちがなんとかするしかなかった。
『[のざわな]の大将がやられたぞ!』
『構うな! 走れ!』
逃げ遅れた住民たちが必死で駆けだす。その無防備な背を嬉々として襲う聖十字騎士団。
最悪、街はどうなっても構わない。
けれど、住民だけは……
逃さねば……
もはや満足に見えない視界、霞む意識で無理やり足を動かす。自分が今立っているのかさえ判然としなかったが、前に進めているのだから立っているのだろう。
勝てなくてもいい。
たった一秒でも、時間をかせぐことができれば、彼らの命がそれだけつながる。
それだけで、充分だ。
その二人は、仲睦まじい若夫婦だった。定食屋をやっていて、自分も冷やかし半分で食べにいったことがある。きっと老夫婦になるまで、仲良くやっていくものだとぼんやり思っていた。
それが―――――
なんでこんな……!
夫の方は妻を庇い事切れていた。悲劇はそれだけに留まらず、その亡骸が妻に倒れ込む形となり、最愛の相手を抑え込んでいた。妻の方も、目の前でいくらかささやいて動かなくなった伴侶に目を見開き呆然としている。逃走まで意識が回っていない。無理もない。こんなあっさり、無慈悲に生涯を誓い合った人間が死んだのだ。
「ゲッチュー」
そんな二人を見下すのは、黒い鎧に十字の装飾がされた男だ。遺体を足で転がし、下敷きになっていた女性の足を掴む。
「死んだ夫の目の前で乱暴される。それはとっても、素敵なことだ」
『またリーダーが最初かよ』
『さっきの初物だってな』
『たまには譲ってほしいもんだ』
口々に不満をつぶやくが止めはしない騎士団員が眺めるなか、リーダーと呼ばれる男は掴んだ細い足を強引に開いていく。
やめろ……
やめてくれ……
朦朧とする意識の中、ただ突き進む。それでもまっすぐ走れているかはわからなかった。不幸中の幸いで、連中はそんな自分など意に介さず、リーダーの婦女暴行に興奮し注視している。
チャンス――――などと大層に呼べるものじゃなかった。けれども、まだ手は残されていた。そう、彼女だけでも助けられる手はある。
自分が完全に連中の意識外にいる以上、こちらは確実に先手を取れる。
残った魔力をすべて吐き出し、ある魔法を練り上げる。詠唱や作動のロスは、向こうが気がついていないのだから考えなくてよい。
それだけの不意打ちであっても、倒せるほどの威力はない。悲しいかな、それほどに力量差があるのだ。
準備を完了し、両手を向ける。
――――まだ間に合う。
心のどこかで、誰かが言った。
それは、まだ助けられるということなのか、
それとも、まだ逃げられるということなのか、
自分でさえ、どちらかはわからなかった。
「――――〈フリーエラ〉」
答えは出せなかったが、やることは変わらなかった。
自分は結局、死ぬまで冒険家なのだろう。
先に逝った皆と、同じように。
足元から、まるで水が湧き出すように氷結魔法が現れる。それは意思を持った蛇のように、騎士団の脚に絡みついた。
氷の中級魔法。範囲はそこそこであるが、凍らせる力も発動の手間もまるで実戦向きではない。
だが、連中の不意をつき、動きを止めることには成功した。
『あ?』
『なんだこれ』
連中の膝から下まで氷で固めた状態だ。しかし長くはもたない。
良くて数秒――悪くて一瞬。
命がけの奇襲の成果にしては涙がでてくるが、泣いている暇などない。
魔力が底をつき、気絶したがる体をこき使う。
「なに」
状況を把握できていないらしいリーダー格の腹に蹴りを入れる。これも一撃でどうにかできると思っていない。ただ、おかげでその手は離れた。
「立って、逃げて」
女性の腕を引っ張り、体を起こさせる。そしてそのまましばらく一緒に走ったが……そこで限界だった。不意につま先がもつれ、膝をつく。
これ以上、自分は逃げることができない。脚はとうに限界を超え、動かなくなっていた。
「速く」
背を押された彼女は何を思ったのか立ち止まり、こちらを見た。唇が何か言いたそうに動く。しかし結局、何も言えなかったらしく、そのまま走り去っていった。それでいい。
最悪、街はここで潰えたとしても、彼女は生きてくれるだろう。
そう。
街は、
もう……
振り返ればそこに広がっているのは終焉である。氷はすでに溶けるなり砕けるなりして、戒めとしての力は失われている。
なにもない。
自分に残っている力も、ひいては冒険家の力も。
抵抗すらできず、ただ蹂躙される。
命も、誇りも、何もかも。
打てる手を打ち尽くし、それでも抗えない敵を前には、諦めるしか術がない。
どうにもならない。
それが結論。
誰でもいい。
神でも悪魔でもなんでもいい。
誰か、もういないのか。
死力を尽くしても届かない、抗いようのない暴力。目の前の暴挙だけでない。この街すべてが、そんな暴力に飲み込まれようとしている。
「せっかくいいとこなのに邪魔すんなよ」
「もう殺しちゃえよ」
「だな」
一斉に振り上げられ、襲いかかる剣を、見上げることしかできない。
自分にできることはもうなにもなくて。
できることといえば、命を奪われるその瞬間、目をつぶることしか。
だからそのとき、何が起こったかはわからない。
わかったことと言えば、
「俺が来るまで、よく持ちこたえてくれた」
目の前に現れた青い鎧が、数人の騎士団員を一瞬で倒したであろうということ。